第19話 4年前から知っていた
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。
ロドリクは少し間を置いてから、口を開いた。
「儀礼台帳のことを、初めて不思議に思ったのは四年前のことです」
アシュリーは何も言わなかった。ただ、続きを待った。
「私は王都の儀礼に、年に三回か四回ほど義務として参加します。北方辺境の人間ですから、政治的な華やかさとは無縁です。参加はしても、できる限り目立たず、静かに役目を果たして帰る。それが常でした」
ロドリクの声は淡々としていた。情感を込めようとしていなかった。事実を順番に並べているだけ、という話し方だった。本来であれば辺境の侯爵が王都の式典に足を向ける機会など、年間でも限られている。それでも義務は義務だった。来なければならない理由があれば来る。それだけのことだった。
「台帳の精度が変わったのが分かりました。使節団の席次の配置が、以前より格段に細かくなっていた。相手国が忌避する色が、装飾から外されていた。式典の時間配分が、体調を考慮した構成になっていた」
アシュリーは静かに聞いていた。その内容に、覚えがあった。当時まだ婚約は続いていた。儀礼の補佐として台帳を整えることが、アシュリーの日常だった。誰かに評価されるためではなく、式典が滞りなく進むためだけに、必要なことを積み重ねていた。書記局との調整も、使節の事前調査も、全て当たり前のことだと思ってやっていた。
「二回目の儀礼で、また同じ水準だと確認しました。三回目の時に分かりました。これはアシュリー・ヴェルヴェント様の仕事だと」
ロドリクがアシュリーの名前を呼んだ。声が少し変わった気がした。感情的になったわけではなかった。ただ、それまでの事実の列挙と、名前を呼ぶ瞬間の質感が、わずかに違った。
アシュリーは驚いた。驚いたとは口に出さなかった。ただ、少し息が止まった。
見られていた。
誰かに評価されると思っていなかった仕事を、誰かが見ていた。しかもその誰かは、王都の内側の人間ではなかった。北方の辺境の侯爵が、年に数回の義務参加の中で、台帳の精度を追っていた。
四年前から。
「その後も毎回、確認していました。一度も水準が落ちなかった。むしろ回を重ねるごとに、より丁寧になっていった。細かい部分への目配りが、増していった」
アシュリーは窓の外に目をやった。春の光が、庭の隅まで届いていた。何も言えなかった。何かを言う前に、言葉が形になる前に、何か違うものが胸の中に広がっていた。
見られていた、ということが、これほど大きく感じられるとは思っていなかった。評価されることも、褒められることも、アシュリーには縁遠かった。仕事は続けるものだった。成果は次の仕事に埋め込まれるものだった。表に出ることはなかった。名前が挙がることもなかった。指示通りに動く存在として、機能し続けることを求められていた。それがアシュリーの四年間だった。
ただ積み重ねてきた。誰かに見せるためでなく。
それを、四年間、北方の人間が見ていた。
カップを持ったまま、動けなかった。茶はとっくに冷めていた。
「四年間、それをお伝えするべきかどうか迷っていました」
ロドリクが言った。声が、それまでよりわずかに低くなった。
「言うべきでした」
短く、はっきりと言った。言い訳をしなかった。反省の言葉も重ねなかった。ただ「言うべきだった」という事実だけを、静かに置いた。後悔とも自責とも違う言葉だった。事実として認めている、という言葉の重さがあった。
沈黙が落ちた。
アシュリーは手をひざの上で組んだ。その手を見た。指が、少し固くなっていた。緊張なのか、驚きなのか、自分でも判別がつかなかった。
見ていてくれた人がいた。
四年前から。
その言葉が、胸の中でゆっくりと沈んでいった。急がなくていい言葉だった。急いで飲み込む必要がない言葉だった。ただそこにあって、じわじわと広がっていく言葉だった。水が石に染み込むように、時間をかけて浸透していく種類の言葉だった。
今まで誰かに仕事を「見ていた」と言われたことがあっただろうか。結果に文句をつけられたことはあった。もっとうまくやれと急かされたこともあった。しかし、ただ見ていた、という言い方をされたことは、なかった。
アシュリーは視線を茶のカップに落とした。底に残った茶の色が、春の光を受けて揺れていた。揺れているように見えたのは、おそらく自分の手が微かに動いていたからだった。
シエルは部屋の端に控えていた。音を立てていなかった。ただそこにいた。気配だけがあった。
ロドリクも静かだった。アシュリーが黙っている間も、急かさなかった。話の続きを促さなかった。ただ、答えが来るまで待っていた。この人間は沈黙を埋めようとしない、とアシュリーは思った。宮廷では沈黙は不安の元だった。誰かが喋り続けなければ、場が壊れると皆が思っていた。この人は違った。沈黙の中でも揺れなかった。
四年間、知っていた。そして黙っていた。
その重さが、少しずつ分かってきた。知らないふりをしていたわけではない。忘れていたわけでもない。意図的に、言わずにいた。それには理由があるはずだった。
「……なぜ、言わなかったのですか」
アシュリーは聞いた。声が思ったより小さかった。咎めているわけではなかった。ただ、知りたかった。四年間、見ていて、なぜ何も言わなかったのか。何がそれを止めていたのか。辺境の侯爵には、声をかけることを阻む何かがあったのか。
問いを出してから、アシュリーは気づいた。これほど素直に「なぜ」と聞いたのは、いつぶりだろう。尋ねることを、恐れていた時期が長かった。問いを立てることは、弱さの露出だと思っていた時期が。しかし今は違った。ただ純粋に、知りたかった。
ロドリクが答えを言う前に、アシュリーは内心で気づいていた。この話をもう少し聞きたい、と思っていた。




