第17話 使者
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。
ノルディア。
アシュリーは一瞬、その名前を頭の中で繰り返した。
門番からの報告を聞いて、すぐに浮かんだのは台帳のことだった。書記局に提出した台帳の、あの整然とした記録。北方辺境の儀礼日程は毎年変わらず記載されていた。漏れなく、滞りなく。ヴェルヴェント家よりずっと長い年月分の記録が、欄外まで丁寧に書き込まれていた。筆跡が几帳面で、読みやすかった。誰が書いているのかは分からなかったが、担当者が変わっても記録の質が一定に保たれているのが伝わる台帳だった。
「ノルディア辺境侯爵家の、使者の方が?」
アシュリーが訊き返すと、門番が頷いた。
「はい。お嬢様にお取り次ぎを、とのことでございます。ロドリク・ノルディア侯爵が本日の午後にお越しになりたいとのことで、まずご都合を伺いに参った次第です」
シエルが隣で少し首を傾けた。アシュリーが視線を向けると、シエルは「先にお父様に」と小声で言った。それが正しかった。アシュリーは「父に伝えてください」と門番に告げ、自分も父の書斎に向かった。
父は来客の知らせを受けてすでに書類を脇に置いていた。アシュリーが扉を開けて入ると、眼鏡を外して顔を上げた。
「ノルディアの使者だそうだね」
「はい。私に面会を求めているとのことです。どうすべきかと思いまして」
父は少し考えた。茶を一口飲んで、カップを置いた。
「ロドリク殿なら会わせてもいい」
断言に近い口調だった。アシュリーが少し驚いた顔をすると、父はそれを見てわずかに表情を和らげた。
「以前から、君のことを……」
そこで口を閉じた。続きを飲み込んだ。何を言おうとしたのか、アシュリーには分からなかった。父が自分からそういう言葉を途中で止めることは、滅多になかった。止めたということは、今はまだ言わない方がいい何かがあるということだった。
父は「信頼できる人物だ」とだけ言って、椅子を引いた。
「会うかどうかは、最終的にはお前が決めなさい。ただ、私はロドリク殿を悪く思っていない」
それだけで十分だった。父の人物評は、いつも短くて、的を外さなかった。
廊下に出ると、シエルが待っていた。
「辺境侯様ですか。あの方が」
シエルが小声で言った。少し間があった。「あの方が」という言葉の後で、シエルは何かを言いかけて止まった。アシュリーが「何ですか」と聞くと、シエルは首を振った。
「いいえ。何でも」
その表情には、何かを知っている顔がにじんでいた。シエルは宮廷に知り合いが多かった。侍女のネットワークは、どの情報網よりも細かく広い、とアシュリーはかねてから思っていた。しかし追及しても今は出てこないと分かった。シエルが「何でも」と言う時は、今言うべきでないと判断している時だった。アシュリーはそれ以上聞かなかった。
なぜ今なのだろう、とは思った。
婚約が解消されたことは、ある程度知られているはずだった。台帳を白紙に戻したことは、書記局の内部にいる人間なら知っている。辺境侯爵家は宮廷との繋がりも深い。情報として届いていてもおかしくはなかった。それでも、なぜノルディア侯爵が、アシュリー個人に会いに来るのか。
台帳の白紙化から三日が経っていた。婚約解消から考えれば、もう少し経つ。ノルディア侯爵家がヴェルヴェント家に使者を寄越す理由は、通常なら外交的な用件か、婚姻の打診か、どちらかだった。外交的な用件であれば父に直接行くはずだった。それがアシュリー個人への面会を求めているのは、いずれかの理由ではないことを示していた。
では何のために。
アシュリーは少しの間、廊下の窓から外を見た。春の庭が見えた。桃の花が散り始めていた。花びらが風に乗って、庭の石畳の上をゆっくり滑っていった。
理由は会えば分かる。会わなければ永遠に分からない。会うことに危険がある相手でもない。父が「信頼できる人物だ」と言ったのなら、それで十分だった。
「会ってみましょう」
アシュリーが言うと、シエルが静かに頷いた。少し安堵したような顔をした、とアシュリーは思った。気のせいかもしれなかったが。
「午後にご案内します」
シエルが答えた。使者への返答は簡潔に伝えられた。本日午後、ヴェルヴェント家応接室にてお待ちします、と。
午後まで時間があった。アシュリーは自室で本を開いた。字を追ったが、内容はほとんど頭に入らなかった。台帳の記録が、ときどき頭の中で開いた。北方辺境の欄。几帳面な筆跡。きちんと揃えられた日付と記名。
ロドリク・ノルディア。
顔を見たことはなかった。名前だけを知っていた。台帳の中の名前として知っていた。書記局に台帳を持ち込む度、その名前を目にしていた。ノルディア家の台帳は、いつも期日より早く届いていた。それだけのことだった。それ以上は、何も知らなかった。
本を閉じた。窓の外を見た。午後の光の中で、庭の木陰が濃くなっていた。もうすぐ夏が来る。そう思った。
台帳の仕事は、アシュリーが一人で担ってきた。エドワルドはほとんど関与しなかった。書記局との交渉も、記名の管理も、変更の申請も、すべてアシュリーがやっていた。それは役割であると同時に、アシュリーが自分で望んでやってきたことでもあった。細かい作業が苦にならなかった。台帳の整合性を保つことに、小さな満足があった。
ノルディア家の台帳が整然としていることを、アシュリーは誰かに言ったことはなかった。だが記録を見る度に、同じ仕事を続けている誰かの存在を感じていた。その誰かが、今日来る。
それだけのことのはずだった。
午後、ロドリク・ノルディアが実家を訪れた。




