第16話 元気なロザリー様
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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報告は、侍女ルートで届いた。
朝の支度が終わり、アシュリーが刺繍の作業台の前に座っていた時のことだった。シエルが部屋に入ってきた。扉を閉めてから、少しだけ声を落とした。
「お嬢様。宮廷勤めのマリサから連絡が来ました」
アシュリーは針を持ったまま顔を上げた。
「何ですか」
「ロザリー様が、宮廷の廊下を走り回っていたのを、三人が目撃したそうです。昨日の午後、儀礼管理局の前を小走りで通っていたと。それだけでなく、儀礼管理局で三時間立ちっぱなしで作業されていたとも」
アシュリーは何も言わなかった。針を布に落として、手を止めた。
「宮廷では、少し話題になっているようです。先週まで病弱で熱が出ると仰っていたのに、という声があちこちで上がっているとマリサが言っていました。『三時間どころか、宮廷を五往復していた』という話まで出ているそうで。掃除係の方や台所の方々の間でも、昨日のうちに広まっていたようで」
「そうですか」
静かに答えた。シエルが少し間を置いた。
「……お嬢様は、ご存じだったんですね」
「ええ」
アシュリーは針を手に取り直した。布の上に目を落とした。
「ロザリー様は、欲しいものがある時はちゃんと動ける人でしたから」
言い方に棘はなかった。ただの事実を述べるような口調だった。シエルは何も続けなかった。そういう言い方をされた時は、それ以上何を言っても余分になると、長年の経験で知っていた。
部屋に沈黙が戻った。針が布を刺す音だけが、細く続いた。アシュリーは手を動かしながら、特に何も考えないようにしていた。頭の中が静かな時間を、大切にしていた。実家に戻ってからの数日間は、そういう静けさの連続だった。
宮廷にいた頃は、いつも何かがあった。王太子殿下のご予定、式典の準備、侍女たちとの調整。台帳の確認と提出。エドワルドとの短い会話。その一つ一つに気を配り、滞りないよう動いてきた。それが自分の役割だと思っていた。
今は何もなかった。それが、静かだった。静かすぎて、時々、自分が何のための人間なのかを忘れそうになった。けれどそれは今考えることではないと、アシュリーは自分に言い聞かせていた。
窓から春の光が差し込んでいた。庭の木が揺れていた。風がある日だった。
昼になった。母が部屋を訪ねてきた。お茶を持って入ってきて、アシュリーの向かいに座った。
「社交界でも噂になっているようですよ」
母は穏やかな顔で言った。責めているのではなかった。ただ伝えていた。
「ロザリー嬢が宮廷を元気よく歩き回っているという話が、昨日のうちにいくつかの家に伝わったみたいで。今朝、ノイエン夫人から手紙が来ました。『ベルジュ家のご令嬢はお体が良くなったのかしら』と。それだけでなく、コーデン侯爵夫人の侍女が宮廷にいるらしくて、直接目撃したという話も届いていて」
「……そうですか」
「あなたが婚約を解消した経緯も、少しずつ知られていくでしょうね。あなたが何か言わなくても、自然と」
アシュリーはカップを両手で包んだ。お茶の温度が手のひらに移ってきた。
「もう関係のないことです」
声が揺れなかった。本当にそう思っているのか、そう思おうとしているのか、アシュリー自身にも境界は曖昧だった。けれど、どちらでも構わなかった。台帳の名前を白紙に戻した夜に、決めたことがあった。振り返らないということだった。
宮廷で何が起きていようと、ロザリーが何をしていようと、エドワルドがどんな顔をしていようと、今はもう自分の話ではない。そう整理した。
母が「そうね」と言って、お茶を一口飲んだ。それ以上は何も言わなかった。母はそういう人だった。言うべき時に言い、引くべき時に引く。娘を追い詰めない距離感を、ちゃんと知っている人だった。
その間も、窓の外で風が木の枝を揺らしていた。光がゆっくり動いた。
午後、アシュリーは刺繍の続きをした。針の動きに集中していれば、余計なことを考えずに済んだ。シエルが窓を少し開けてくれた。外から風が入ってきた。春の終わりの空気だった。庭の花がほとんど散って、葉の緑だけが残っている時期だった。
ロザリーが三時間立ちっぱなしで作業していた、という言葉が、ふと頭を過った。
三時間。立ちっぱなしで。儀礼管理局で。
それを聞いた時、アシュリーは何も驚かなかった。むしろ、そうだろうと思った。ロザリーは昔からそういう人だった。欲しいものが見えた瞬間、体が動く。熱があると訴えていた翌日に遠乗りをしていたことも、一度だけあった。あの頃は幼かったから、笑い話で終わった。
今は笑える話ではなかったが、それでも、驚くことではなかった。
エドワルドがロザリーを選んだ。ロザリーはその選択を受けて、式典の準備に奔走している。何かを得るためにためらわない、という点において、ロザリーはいつも一貫していた。それが正しいかどうかは別として、そういう人だった。アシュリーはその事実を、静かに受け入れた。
宮廷内で噂が広まることも、分かっていた。使用人の目は鋭い。令嬢の様子の変化は、すぐに話として広まる。「病弱で熱が出る」と言っていた人間が三時間立ちっぱなしで仕事をしていれば、誰でも疑問に思う。そしてその疑問は、やがて誰かの耳に入り、整理され、解釈される。
それがアシュリーの利益になるかどうかは、関係なかった。ただ事実が積み重なっていくだけだった。アシュリーがそれに手を貸す必要はなかった。何も言わなくても、世の中は動く。
針を動かした。糸が布の上を走った。花の形が少しずつ出来上がっていった。外からは風の音がした。
夕方になった頃、アシュリーは作業台の脇に刺繍枠を置いた。目が少し疲れていた。シエルが灯りをつけてくれた。
「今日は早めに休まれますか」
「そうしましょうか」
短く答えた。この話はもう終わりだった。宮廷の噂も、ロザリーの話も、今の自分には関係ない。そう決めた。
ただ、夜になっても窓の外をしばらく見ていた。暗くなった庭に、何があるわけでもなかった。視線の行き先を探していただけだった。何かを考えていたわけでも、何かを悼んでいたわけでもなかった。ただ、窓の外を見ていた。それだけだった。
その翌朝、門番が訪客を告げた。ノルディア辺境侯爵家の使者が来ている、という。




