第13話 宮廷書記局の非常事態
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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書記局の朝は、規程通りに始まった。
七時に登局し、七時半に前日の受付簿を確認する。担当者が持ち場につき、当日の案件を振り分ける。窓口の整理番号札を補充し、インクの残量を確かめる。受付簿の日付を押し直し、前日の未決件数を台帳に転記する。こうした手順は十年前からほとんど変わっていなかった。書記局はそういう場所だった。変わらないことが、信頼の根拠だった。
局員のカルテルが異変に気づいたのは、午前の案件整理の途中だった。
来週に予定されている使節歓迎の夜会、その儀礼台帳を棚から取り出した時だった。表紙を開き、担当者欄に目をやった。そこが空白だった。
最初は見間違いだと思った。
もう一度見た。空白だった。
カルテルは隣の同僚を呼んだ。
「この欄……記入されていませんよね」
「……本当だ」
二人で台帳を見た。担当者欄の周囲には、丁寧な筆跡でいくつかの注意書きが入っていた。席次の補記、参加国数の確認事項、給仕の人数に関する照合先の記載。そうした細部は全て、整然と記されていた。しかし担当者欄だけが、白紙だった。
カルテルは書架を確認した。今年の台帳を全部出した。同じだった。いずれの台帳にも、担当者欄に名前がなかった。今年の一月以降に更新された台帳は、全件が同じ状態だった。
「書記局規程第七条の適用範囲ですか、これ」
「確認します」
同僚が規程集を引いた。第七条第三項。「儀礼台帳の担当者欄は記名権者による自署を要する。記名なき台帳は法的効力を持たない」。読み上げると、二人の間にしばらく沈黙が流れた。
「来週の夜会……止まりますよ、これ」
「書記局長に報告します」
報告は早かった。局長は書類を確認し、午前のうちに局内に向けて確認文を回した。各担当者は当該台帳を再確認し、同様の状態を把握した。局長はさらに王太子殿下の執務室へ通達文を送った。「記名権者の不在により、来週以降の儀礼台帳が無効となる。速やかに記名権者を確保されたい」。文面は丁寧だったが、意味は明快だった。
午後になって、エドワルドの副官が書記局に来た。背の高い、几帳面そうな男だった。来た時から少し表情が硬かった。
「なんとかならないか」
副官が言った。
「規程上、なりません」
カルテルは答えた。感情を込めずに言った。規程だから仕方がない、という話ではなかった。規程は正確に機能している、という話だった。
「担当者欄は、記名権者の自署でなければ無効です。代筆も、委任状も、認められていません。書記局規程第七条はそのように定めています」
「ロザリー・ベルジュ嬢を記名権者にすることはできるか」
副官が言った。カルテルは一拍置いた。
「記名権者の資格は、王太子殿下の正式な婚約者に限られます。ベルジュ嬢が現在そのご立場でないのであれば、不可能です」
副官が黙った。何かを言いかけて、やめた。返す言葉がないのだろうと、カルテルは思った。副官は頭を下げて、そのまま書記局を出た。扉が静かに閉まった。
部屋が静かになった。
カルテルは台帳を机に戻した。
表紙をもう一度開いた。さきほどと同じ、空白の担当者欄があった。その周囲の注意書きを、今度は丁寧に読んだ。席次の補記には、各国の来賓の特記事項が二ページにわたって整理されていた。食事の制限、宗教上の配慮、過去の式典でのトラブルの記録と対処法。そういったことが、几帳面な字で書いてあった。
棚の引き出しを開けると、薄い冊子が一冊入っていた。表紙に「引き継ぎ用補記資料」と書いてあった。開くと、最初のページに「本資料は台帳の補記として作成しました。次の担当者が必要とする情報を可能な限り収録しています。不明な点があれば書記局担当のカルテル様にご照会ください」という一文があった。
差出人の名前はなかった。しかし筆跡は台帳の補記と同じだった。
カルテルはしばらくそのページを見ていた。冊子をめくると、月ごとに整理された注意事項があった。一月から十二月まで、全ての行事について。外交上の優先順位、国別の配慮事項、過去四年間で生じた問題のまとめと解決方法。自分が次に担当する誰かのために、この人は全部書いておいたのだ、とカルテルは思った。
夜会の台帳を閉じた。他の台帳も並べて見た。十一月の秋季謝恩式典、年明けの新年晩餐会、春の使節接伴。いずれも同じ筆跡で補記が入っていた。四年分の行事を、一人で支えてきた痕跡がそこにあった。担当者欄に名前がないだけで、この人がここにいたことは、どの台帳にも残っていた。
「四年間アシュリー様がやっていたことの全体像が、今日初めてわかった気がします」
独り言だった。誰かに聞かせるつもりはなかった。隣の同僚も今は席を外していた。ただ呟いた。
台帳を一冊ずつ棚に戻した。並べると、背表紙が年度順に並んだ。直近の四年間のものは、少し使い込んだ跡があった。ページが傷んでいるわけではなかった。何度も開かれた痕跡が、表紙のたわみに出ていた。書棚のこの一画が、四年間で積み上げられたものの全部だった。
書記局を出る前に、カルテルはもう一度だけ引き継ぎ資料を開いた。最後のページには、一行だけ書いてあった。
「この台帳が、次の担当者の手で丁寧に引き継がれることを願っています」
それだけだった。署名はなかった。日付もなかった。でも、誰が書いたのかはわかった。
カルテルは資料を閉じ、棚に戻した。台帳と並べて置いた。来週の夜会までに記名権者が確保されなければ、式典は成立しない。そのことは自分の問題ではなかった。書記局の問題でもなかった。規程が機能している。それだけのことだった。
ただ今夜は、この資料を残していった人のことを少し考えるだろうと思った。引き継ぎ先の担当者が、まだ決まっていないのに。
冊子を閉じた。台帳の棚に戻した。窓の外には夕方の光があった。書記局の一日がそろそろ終わりに近づいていた。
その日の夕方、国王陛下が王太子殿下を御前に召された。




