第12話 最初の綻び
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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実家の二日目は、静かに始まった。
朝食は昨日と同じ食卓だった。母が作らせた粥と、薄切りのパンと、干した果物の砂糖漬けが並んだ。宮廷の朝食とは違う、家の食事だった。母が「もっと食べなさい」と言った。アシュリーはもう一皿分よそった。おいしかった。
食後、シエルが「少し外の様子を聞いてきます」と言って出かけた。アシュリーは居間で本を読んでいた。父の書棚から借りた、古い農政の記録だった。特に読みたいものでもなかったが、手が自然にそこへ伸びた。何かに集中している形を取らないと、気が散ることに気づいていた。計画のない時間の過ごし方を、少し忘れていた。四年間、常に次の行事があった。次の段取りがあった。手帳に予定が埋まっていた。何も入っていない午前が、こんなにも長いということを、久しぶりに感じた。
昼前に、シエルが戻ってきた。
「お嬢様」
「なんですか」
シエルが少し間を置いた。
「書記局から確認書が出たそうです。台帳の担当者欄が空白になっているという件で、確認が取れていないと。王都の知人から聞きました」
アシュリーは本を閉じた。
「そうなりますね」
それだけ言った。予想の範囲内だった。書記局が動くとすれば、まず形式上の確認から入る。担当者欄が空欄では、台帳の有効性が成立しない。書記局はその手続き通りに動いた。規程に従っている。アシュリーが規程通りに動いたのと、同じことだった。制度は人を選ばない。誰に対しても同じように動く。それが制度だった。
シエルが何かを言おうとして、やめた。言わなかった。「大丈夫ですか」とも「どうするつもりですか」とも言わなかった。ただ「わかりました」と言って下がった。
アシュリーは本を再び開いた。農政の記録のページには、数十年前の灌漑工事の記録が載っていた。何の接点もない話だった。でも読んでいた。字を目で追っていた。それだけでよかった。今日は誰かのために何かをする必要がなかった。
父がその日の午後、居間に入ってきた。母は庭にいた。二人きりになった。
父が椅子に座り、少し考えてから言った。
「本当にわかっていて出てきたのか」
アシュリーは父の顔を見た。
「はい、わかっていました」
「……台帳の担当者欄が空白になれば、書記局が動く。規程通り、確認が来る。来年一月の新年宮廷晩餐会には、記名権者がいない。式典は成立しない」
「そうなります」
父がまた少し黙った。
「それを承知で、出た」
「はい」
父の視線がアシュリーから外れた。窓の外を見た。庭の向こうに、午後の光が差していた。冬の終わりに近い光で、角度が低く、木の影が長く伸びていた。しばらくそのまま何も言わなかった。部屋の中が静かだった。暖炉の炭が少し爆ぜた。小さな音だった。
それから父は、静かに頭を下げた。
言葉はなかった。ただ、頭を下げた。アシュリーへの敬意を、その動作だけに込めた。
アシュリーは受け取った。言葉で返さなかった。返す必要がなかった。受け取るだけで十分だった。この人が頭を下げるのは、そういう意味を持つ時だけだった。この四年間の重さを、父が理解した。それが伝わった。言葉にするよりも、正確に伝わった。
夕方になった。
シエルが再び、外からの情報を伝えに来た。
「王太子殿下が、国王陛下に呼ばれたようです」
アシュリーは椅子に座ったままだった。
「そうですか」
シエルがアシュリーの顔を見た。何かを確かめるような目だった。アシュリーは本を手に取った。
「他には」
「書記局の確認書を受け取った際、対応した職員が慌てていたと聞きました。書記局内でも、予想外の事態だったようです。書記局長が直接、案件を確認したとも」
「そうでしょうね」
アシュリーは本のページを一枚めくった。
書記局の職員が慌てるのは当然だった。あの担当者欄が空白になるとは、誰も想定していなかっただろう。四年間、アシュリーが全て処理してきた。書記局の側から見れば、アシュリーが担当者欄に記名するのは毎年の当然のことだった。今年も同じだと思っていたはずだった。そこに突然、空欄が現れた。
想定外のことが、制度の中で起きた。ただそれだけだった。アシュリーが誰かに連絡することはなかった。釈明することもなかった。説明を求められたら答える。でも自分から動く理由がない。制度が動いている。それを見ているだけでよかった。アシュリーは本のページをまた一枚めくった。今度は村の水利に関する記述だった。知らない土地の話だった。でも読んだ。
その夜、アシュリーは早めに眠った。疲れていた。体の疲れではなく、四年分の何かが少しずつ抜けていく感覚だった。眠る前に窓の外を少し見た。昨夜よりも雲が少なかった。星がいくつか見えた。王宮の塔の方角に、星が二つ並んでいた。何座なのか、アシュリーには知識がなかった。ただの星だった。それを見て、目を閉じた。
翌朝、扉の外でシエルの動く気配がした。アシュリーが起き出すと、シエルがすでに支度を整えていた。
玄関の方で音がした。使用人が外から戻ってきた様子だった。廊下を早足で歩く音がして、居間の方へ向かっていった。少しして、シエルが顔を出した。顔が少し緊張していた。
「お嬢様」
「なんですか」
「届いた書状の束が、普段の三倍の厚さになっていたそうです」
アシュリーは少しの間、何も言わなかった。窓の外に朝の光があった。三日目が始まっていた。




