貴族たちの北上
北の果て、ムーツ領。
かつては寂れた寒村と言われたその土地も、今や独自の活気と最先端の香りを纏い始めていた。
その男爵邸の前に、幾台もの豪華な馬車が重々しい足音を響かせて到着する。
馬車から降り立ったのは、アルスター公爵ルードヴィヒとエオノーラ夫人。
そして、事前の約束通り同行することになったハギムーン侯爵とシュクレ夫人――までは想定内だった。
だが、その一団の先頭、もっとも豪華な馬車からひょっこりと顔を出した人物を見た瞬間、出迎えていたイチカは思わずその場で固まった。
「いやぁ、遠かったな! 北の空気は美味いし、何より旅の疲れをあの『天国』と噂の温泉で洗い流すのが今から楽しみで仕方ない!」
晴れやかな笑顔で馬車から降りてきたのは、なんと王弟殿下であるジークフリート殿下。
そして、その後を上品に微笑みながら優雅に降りたのは、王弟妃のビクトリアその人であった。
(……は!? え、ちょっと待って!? アルスター公爵家とハギムーン侯爵家の合同視察じゃなかったの!? なんで国の最高権力者である王弟殿下ご夫妻までしれっと混ざってるんですか……!?)
イチカの脳内で猛烈なツッコミと冷や汗が渦巻く。
政治的な思惑や外交の重要性は理解しているつもりだが、田舎の男爵領に大物ゲストが次々と押し寄せるこの状況は、もはや心臓に悪いレベルを超えていた。
しかし、ここでひっくり返るわけにはいかない。
イチカは必死に表情を引き締め、最高級の笑顔と完璧な礼儀作法を取り繕って一礼した。
「ようこそ、ムーツ領へお越しくださいました、ジークフリート殿下、ビクトリア妃殿下。そしてアルスター公爵閣下、ハギムーン侯爵閣下、皆様のご来訪を心より歓迎いたします」
「おぉ、久しぶりだなイチカ嬢! 今回は一人の客としても楽しみにしてきたんだ、頼むぞ!」
ジークフリート殿下が気さくに笑いかけると、緊張していた周囲の空気が少しだけ和らいだ。
――そして、一行はさっそく温泉迎賓館のサロンへと案内された。
長旅で冷え切った身体と、王都からの移動の疲れを癒やすため、イチカが最初にもてなしとして用意したのは、おなじみの黄金色に輝く「アップルシードル」と、芳醇な香りの「アップルティー」
そして鮮度の問題からここでしか提供できない特製のふわふわ「ショートケーキ」だった。
美しい皿の上に並ぶ、甘酸っぱい夏秋イチゴと真っ白なクリームのショートケーキを見た瞬間、今回の視察で初めてムーツ領を訪れたハギムーン侯爵家のシュクレ夫人は、思わず息を呑んだ。
「まあ……なんて、気品があって美しいお菓子……」
フォークを入れ、一口運んだシュクレ夫人の瞳が、驚愕と感動に大きく見開かれる。
スポンジの軽やかな口溶け、上品な甘さのクリーム、そして北国の冷涼な気候が生み出した夏秋イチゴの鮮烈な酸味が、口の中で完璧なハーモニーを奏でていた。
「美味しい……! 王都のどんな高級サロンでも味わったことがないわ。これが、噂の『ルナ・ソレイユ』のスイーツ……!」
感動に胸を打たれた様子のシュクレ夫人を見て、エオノーラ夫人は得意げに微笑み、ジークフリート殿下も「ほう、相変わらずここの料理のレベルは反則的だな!」とシードルを美味しそうに飲み干した。
こうして、北の寒村ムーツ領の応接室は、王国の最高権力者たちを瞬く間に虜にする甘い魔法に包まれていったのだった。




