アルスター公爵邸にて
カトリーナの商館での熱い打ち合わせを終えたイチカは、近くの宿泊先ではなく、エオノーラ夫人のほぼ命令に近い要望でアルスター公爵邸へと馬車を走らせていた。
我がシモキタール男爵家の後見人的な存在であるアルスター公爵家。
その当主の妻であり、すっかりムーツの魅力にハマっているエオノーラ夫人がいるこの大邸宅は、今後イチカにとって王都における実家のような心強い場所となる。
「待っていましたわ、イチカ!」
玄関を開けるやいなや、エオノーラ夫人が満面の笑みで迎えてくれた。その肌も髪も、以前より一段と磨きがかかっていて眩しいほどだ。
「お待たせしました、エオノーラ様。すっかり王都の夜会で大人気と伺っております」
「もう、聞いてくださる? あなたが持たせてくれた美容品のおかげよ。おかげで夫人の友達から質問攻めよ」
そんな微笑ましいやり取りを交わしつつ、私は落ち着いた客室へと案内された。
私たちが王都に来た目的は商売だけではない。――そう、ルーカスの「北方警備隊」の件である。
翌日、アルスター公爵邸の格式高い応接室。
本来であれば王城の一室で行われるはずの面会が、今回は特別に、後見人であるアルスター公爵家の計らいによってこの公爵邸の一室で行われることになった。
「待たせたな、シモキタール男爵令嬢、そして元・王都騎士団副団長」
重厚な扉が開き、現れたのは気品と鋭い知性を纏った若き男性――王弟ジークフリート殿下その人だった。
私は一歩引いた位置で控えているが、今回は私自身も同席している。
ジークフリート殿下は私を見ると、ふっと余裕のある笑みを浮かべて席へと腰を下ろした。
「先日はムーツ領にて、我が人生最大の衝撃とも言える素晴らしいもてなしを受けた。
あの温泉、サウナ、そして夜鳴きそばの味……今でも思い出しては胃袋が疼くほどだ」
殿下の開口一番の言葉に、私は思わず頬を緩ませた。
「お気に召していただけて光栄です、殿下。あの夜の感動は、私たちにとっても忘れられない思い出です」
「はは、そうだな。だが、今日の用件は美食の思い出話だけではない」
ジークフリート殿下の表情が、スッと公的なそれに切り替わる。鋭い眼差しが、一歩前に進み出たルーカスへと向けられた。
「本題は『北方警備隊』の件だ。ノースシーロード王国との会談、そしてムーツ領周辺の治安維持および不穏分子の警戒――それを任せるに足る器として、私はルーカス、君を推挙した。
……王都騎士団を離れ、北方の地で新たな道を歩んでいる君に、改めて問う。我が国の北の盾となる覚悟はあるか?」
部屋の空気がわずかに引き締まる。
ルーカスは背筋をピンと伸ばし、まっすぐジークフリート殿下を見据えて深く頭を下げた。
「はっ。身に余る光栄にございます。微力ながら、我が武芸と経験のすべてを捧げ、北方の守りを固める所存です」
その力強い返答に、ジークフリート殿下は満足そうに深く頷いた。
「頼もしい返答だな。実務的な部隊の編制や人員の選定、そして王都との連携体制については、追って正式な辞令とともに通達する。
……だが、ルーカス。君が北方の盾となるならば、その後ろ盾であり、この公爵邸に身を置くムーツ領、そしてイチカ嬢の協力も不可欠になるということだ」
殿下は意味深な笑みを浮かべながら、私へと視線を向けた。
「イチカ嬢に再び問うが、ノースシーロード王国との会談の場所として、ムーツ男爵領は受けてもらえるだろうか
会談は我が国にとって、諸外国の要人をも唸らせるような『食』や『文化』の力は、時として剣以上の外交カードになる」
「殿下のご用命、謹んでお受けさせていただきます」
とイチカはしっかりと回答した。
「……頼むぞ、イチカ嬢。君の生み出す奇跡の産物たちは、これからの王国にとっても大きな鍵を握ることになりそうだ」
「お任せくださいませ、殿下。ムーツ領の繁栄はもちろん、王国の未来にとっても素晴らしいお力添えをしてみせます」
私の力強い宣言に、ジークフリート殿下は愉快そうに声を上げて笑った。
アルスター公爵邸という心強い基盤のもと、ルーカスの北方警備隊の設立に向けた本格的な動きが動き出し、私たちの王都での挑戦は、政治と経済の両面でさらに大きなうねりを巻き起こしていくのだった――。




