ブルーフォレスト伯爵領の緊急事態
奇跡的な偶然(あるいは料理長のヤケクソ)によって、ワイルドボアの骨とクズ野菜からなる濃厚な進化系スープを完成させたブルーフォレスト伯爵。
興奮冷めやらぬ伯爵は、その感動のままに即座に早馬を仕立てた。
宛先はもちろん、ムーツ領のイチカ嬢のもとである。
ムーツ男爵邸に息を切らせた一頭の馬が到着した。
飛び込んできたブルーフォレスト領の連絡係は、青ざめた顔でイチカの前に平伏する。
「い、イチカ様! いますぐブルーフォレスト伯爵領へお越しいただきたいのです!」
「急にどうしたの? 何かあったの?」
突然の呼び出し、しかも「一刻を争う」と言わばかりの鬼気迫る様子に、イチカは驚きを隠せない。
「それが……詳しい事情は私にも何も! ただ伯爵様から『一刻も早くイチカ嬢を連れてこい、命懸けで行け』とだけ……!」
連絡係がこれまでに見たこともないような必死の形相でそう訴えると、傍らに控えていたルーカスが険しい顔つきで一歩前に出た。
(急ぎの使者、それも詳細を伏せた極秘の呼び出し……。領地間で何か重大なトラブルか、あるいは治安上の不穏な動きか……!)
元副団長としての危機管理センサーが最高潮に働いたルーカスは、最悪の一大事を想定した。
「……分かりました。すぐに向かいます」
イチカの護衛と万が一の事態に備え、ルーカスは即座に臨戦態勢を整えた。
ムーツ領を出発した二人は、途中街道を警備しているブルーフォレスト伯爵領の兵士たちを見つけるや否や、「一大事だ!」と事情を説明して次々と引き連れていく。
結果として、伯爵邸にたどり着いた頃には、屈強な兵士たちを引き連れた大部隊のようになっていた。
門番や屋敷の者たちは、突然の軍勢の来訪に腰を抜かすほどの騒ぎとなる。
「ルーカスさん、大げさすぎない……!?」
「何があるか分かりません。油断は禁物です」
厳戒態勢のまま通されたのは、なぜか殺伐とした会議室ではなく、優雅なティータイムに使われる豪華なサロンだった。
部屋の扉が開くと、そこにはなぜか、ワイングラス片手にこれ以上ないほど不敵で、勝ち誇ったような笑みを浮かべるブルーフォレスト伯爵が優雅に座っていた。
「よくぞ来てくれた、イチカ嬢! そしてルーカス殿!」
「伯爵様、いったい何事ですか!? 領地で何か……」
ピリピリとした空気を纏うルーカスをよそに、伯爵はふんっと鼻を鳴らし、満足げに指をパチンと鳴らした。
「慌てるな。命に関わるような一大事ではない。だが、我が領の歴史を塗り替える『大事件』には違いなくだ!」
伯爵の合図とともに、控えた従者たちが銀の蓋が被せられた大きな丼を恭しく運んできた。
テーブルの上に置かれ、パカリと蓋が外される。
立ち上る湯気とともに、見慣れた、しかしムーツのものよりも圧倒的に力強く、芳醇な肉の香りが部屋中に広がった。
「これは……ラーメン……?」
「そうだ。イチカ嬢が教えてくれたワイルドボアの骨をベースに、我が領の料理長が死線をくぐり抜けて到達した究極の新作だ! さあ、冷めぬうちに一口すすれ!」
一大事だと思って全身の血を沸騰させて駆けつけたイチカとルーカスは、目の前の丼と伯爵のドヤ顔を見て、一気に全身の力が抜け落ちていくのを感じた。
(……え? これだけの騒ぎを起こして、呼び出した理由ってラーメンの試食……?)
脱力感を覚えつつも、促されるままにイチカは箸を手に取り、スープを一口飲んだ。
「――っ!?」
瞬間、苺香の目が見開かれた。
それは、ムーツ領で提供していた上品な干し貝柱の海鮮スープとも、前世で記憶していたどんな豚骨ラーメンとも違う。
ワイルドボアの野性味ある濃厚なコクと旨味が限界まで引き出されながらも、驚くほど澄んだ後味を併せ持つ、完璧に昇華されたスープだった。
「どうだ、この美味さは……!」
伯爵が期待に満ちた目を向ける中、苺香は深く息をつき、心からの称賛を口にした。
「……素晴らしいです、伯爵様。私が知っているどの豚骨ラーメンよりもコクがあって……ものすごく美味しいです!」
「ふはは、だろう! 我が領の料理長の執念の結晶よ!」
満面の笑みを浮かべる伯爵は、旨そうにラーメンをすするイチカの姿を見つめながら、深く納得していた。
以前、イチカから
「レシピを無償で提供することで、それぞれの土地で独自の進化を遂げてラーメン文化が広がる」
と言われたあの言葉の意味が、今なら痛いほどよく分かる。
ただの料理の模倣ではなく、それぞれの地で新たな文化が芽吹く面白さを、伯爵は今、肌で実感していたのだった。
イチカが伯爵家の料理人から貰ったレシピには、野菜は端の方を使う事と書かれてあった。
苺香は「クズ野菜とは書けないよな」と思いながら帰路についた。




