シュワシュワの魔法と、小さな満月
ルーカスさんから譲り受けた密閉ガラス瓶に、細かく刻んだリンゴの皮と芯、ひたひたの水を入れる。
これで準備は完了だ。
「おねえさま、これで本当にパンが膨らむの……?」
不思議そうに瓶を覗き込むエリスに、私は微笑みかけた。
「ええ。リンゴの皮にはね、目に見えない小さな『酵母さん』がたくさん生きているの」
「毎日一回、蓋を開けて空気を吸わせてあげて、暖炉の近くで温めてあげるとね、シュワシュワと元気に育っていくんだよ」
瓶を暖炉の横の絶妙な暖かさが保たれる場所にそっと置く。
酵母が十分に育ち、強力な発酵液(パン種)になるまでには三日ほどかかる。
(よし、これで数日間じっくり育てていこう)
その日の夜。冷たい風が館を揺らす中、暖炉の前で子グマが私の膝の上に頭を乗せて甘えてきた。
「そういえば、この子にまだ名前をつけてあげていなかったわね」
私は子グマの柔らかい毛並みを撫でながら言った。
「名前……! おねえさま、どんな名前にするの?」
エリスが目を輝かせて膝立ちになる。
膝の上の子グマをよく見ると、胸元にあるツキノワグマ特有の白い模様が、綺麗な「三日月」ではなく、まん丸い「満月」のような形をしていることに気づいた。
それに、抱きかかえてひっくり返してみると――
「あら、この子、女の子ね」
「女の子なんだ! かわいい!」
「黒くてふかふかの体に、胸の白い満月……よし、あなたの名前は『ルナ』よ。よろしくね、ルナ」
「クゥ~ン!」
『ルナ』と呼びかけた瞬間、子グマは嬉しそうに私の手元に鼻先をすり寄せてきた。
すると次の瞬間――
ポン、と小さな温かい光の粒がルナの全身から溢れ出し、夜の静かな部屋を一瞬だけ淡く照らした。
「え……? いま、光った……?」
「なあに? おねえさま、ルナが何かしたの?」
「ううん、暖炉の火の照り返しかもしれないわね」
その光はほんの数秒で消え去り、ルナは満足そうに私の膝の上で「キュゥ~」と丸くなって寝息を立て始めた。
(気のせい……かしら? でも、なんだかルナとの絆がすごく深まったような……不思議な感覚)
もちろん、これが一般的な「テイム(従魔契約)」の兆候であることも、私どころか森の猟師であるルーカスさんすらまだ知る由もなかった。
そして、仕込みから三日目の朝。
暖炉の横に置いていたガラス瓶の中で、待ち望んだ変化が起きていた。
シュワシュワシュワ……!
瓶の底から無数の小さな気泡が立ち上り、蓋を開けると「シュポン!」と元気な音が鳴って、熟した果実の甘酸っぱい芳醇な香りが部屋いっぱいに弾けた。
「見て、父様、エリス! リンゴ酵母がかんせーい!」
「おお……! まるで極上の果実酒のような香りだね!」
「クゥ~ン!」
足元でルナも一緒に喜ぶように尻尾を振っている。
元気いっぱいに発酵した、最高の天然酵母液。
不毛と言われたこの極寒の地で、ついに「本物の柔らかいパン」を焼き上げるための準備が完璧に整ったのだった。




