別れの朝とルナの抵抗
王弟の一行が去った後もムーツ領に滞在していたアルスター公爵夫人エオノーラとアリスだったが、その長かった滞在にもいよいよ終わりの時が訪れていた。
出発の朝。男爵邸の馬車寄せには、旅装束を整えたエオノーラとアリス、そして見送りのために集まったイチカ、ルキウス、ルーカスに加え、ムーツ領の経理を任されているエオノーラの息子・ロベルトと、イチカの妹・エリスの姿もあった。
馬車の前で、エオノーラは優雅に微笑みながらイチカとルーカスに視線を向ける。
「さて、長居をしすぎたわね。私がするべき仕事も無事に果たせたことだし、そろそろ王都へ帰ることにするわ」
その含みのある言い回しに、ルーカスはすべてを察したように、スッと一歩前に出て深く深々と頭を下げた。
「……エオノーラ様。この度の数々のお心遣い、深く感謝いたします」
エオノーラは満足そうに頷く。
「頭を上げなさい、ルーカス。帰ったら、王弟殿下にあなたから『北方警備隊』の件を受けると伝えておくわ。だからあなたもしっかりと、この地とイチカを守りなさい」
「はっ」
力強く応えるルーカスの姿に、エオノーラはふっと満足げな笑みをこぼすと、先に馬車へと足を向けた。
その直後、アリスは何食わぬ顔でもふもふとした子グマのルナをしっかりと抱きかかえたまま、しれっと馬車に乗り込もうとする。
「それじゃあ王都に出発――」
「キュキュッ!? クゥーーッ!!」
抱えられたルナは、まだ出発のつもりはないと言わばかりに、短い前足をジタバタと動かし、「降ろせ!」と訴えるように必死で鳴き声を上げた。
必死の抵抗に、アリスは困ったように眉をハの字にする。
「えーっ、ルナ、そんなに嫌がらなくてもいいでしょ? 王都に来たら美味しいはちみつが食べ放題なんだよ?」
ルナが涙目のまま必死に首を横に振る姿に、ロベルトが苦笑いを浮かべ、エリスもくすくす笑いながら優しく声をかける。
「アリスちゃん、ルナはうちの子だから、こっそりお持ち帰りはダメだよ」
イチカも困ったような、しかし愛おしそうな笑みを浮かべてしゃがみ込んだ。
「アリスちゃん、ルナを地面に降ろしてあげて。連れていかれちゃうって本気で焦ってるわよ」
名残惜しそうにしながらも、アリスはシュンとしながらルナを地面へと降ろした。
しかし、自由になったルナはまっすぐイチカのもとへ駆け寄ると、その足にしがみつき、離るまいとばかりにギュッと両前足で抱きついた。
「ああっ、ルナ……! そんなに私と帰るのが嫌でお姉様のところに駆け込んじゃったの……!?」
アリスが目を潤ませると、イチカは馬車に歩み寄りアリスに声をかけた。
「ルナはずっとここにいるから、いつでも遊びにいらっしゃい」
イチカになだめられ、アリスは涙目になりながらも、名残惜しそうにルナを何度も振り返りつつ、すごすごと馬車へと乗り込む。
そして、アリスとエオノーラ夫人は馬車の窓から顔を出し、見送るイチカやエリスたちに手を振った。
「イチカちゃん、色々ありがとう! 絶対また来るからね!」
エオノーラたちの乗った馬車が、ガタゴトと車輪を鳴らしながらゆっくりと動き出す。
馬車が街道の向こうへと小さくなり、やがて完全に姿を消す。
賑やかな来訪者たちが去った静かな朝の空気の中で、ルーカスはぐっと引き締まった表情で前を向く。
エオノーラとの約束、そして守るべきもののために――。
元副団長ルーカスの新たな戦いが、いま静かに動き出そうとしていた。




