ルーカスの決意
静かな朝の光がムーツ領の男爵邸を照らす頃、イチカは執務室の机に向かい、次の領地経営に向けた書類の山と格闘していた。
そこに、静かにノックの音が響く。
「どうぞ」
ドアを開けて入ってきたのは、いつもと変わらぬ黒ずくめの装いに身を包んだルーカスだった。だが、いつもの飄々とした、あるいはどこか影のある雰囲気とは違い、今日の彼の背中には妙に引き締まった緊張感があった。
「どうかしたの、ルーカスさん?」
ペンを止めたイチカが首をかしげると、ルーカスは一歩前に進み、静かに頭を下げた。
「イチカ。……昨夜、エオノーラ様と少し話をした。その件で、伝えしておかなければならないことがある」
「エオノーラ様と? 一体どんな話を……」
イチカが怪訝な顔をすると、ルーカスはふっと自嘲気味に笑い、それからまっすぐな眼差しを向けた。
「王弟殿下が持ちかけてきた、『北方警備隊』の件だ。私をその隊長に据え、このムーツ領と迎賓館の警備を一任したいという……あの話を受けようと思う」
「えっ……!?」
イチカは思わず目を見開いた。
先日の戦略会議の席で、ルーカスは「すでに騎士団を辞めた身だ」と即座にその話を拒絶していたはずだ。わずか一晩で彼の決心を覆させたものに思いを馳せつつ、イチカは急に真剣な表情になる。
「ちょっと待って、ルーカスさん。たしかに迎賓館の警備や、今後やってくる要人の安全を考えれば、北方警備隊のような公的な防衛組織ができるのはこれ以上ないほど心強いわ。でも……ルーカスさん自身は、王国中央や騎士団に対して複雑な想いがあったはずじゃ――」
「過去の因縁や、俺個人の意地などよりも……守るべきもののほうが、圧倒的に重くなったということだ」
ルーカスの低い声には、一切の迷いがなかった。
「この領地が広がり、イチカが作り出す技術や特産品がどれだけ世に注目されようとも、それを狙う不届き者は必ず現れる。そのとき、イチカを、そしてこのムーツ領の平和を守るためには、もはや俺一人の護衛では手が回らなくなる」
エオノーラが指摘した通りの現実的な懸念と、何よりも「イチカを守り抜く」という揺るぎない執念が、ルーカスの背中を押していた。
イチカはしばらくルーカスの顔を見つめていたが、やがてふっと力を抜き、優しく微笑んだ。
「……ルーカスさんがそこまで考えてくれるなら、私から反対する理由なんて何もないわ。むしろ、すごく心強いわね、隊長さん」
主からの温かい言葉に、ルーカスは深く一礼した。
こうして、かつて王都から追放された元副団長は、最愛の少女と小さな領地を守るため、再び公の舞台へと盾を掲げて立つことを決意するのだった――!




