夜鳴きそばを食べながら
翌日。
充実した滞在を終えた王弟ジークフリートは、ルキウス男爵とイチカに厚い感謝と賛辞を述べ、王都へと帰路についた。
アルスター公爵も王弟の帰還に同行したが、妻であるエオノーラ夫人とアリスは、引き続きムーツ領の文化やビジネスのさらなる視察を名目に、もう少し滞在していくことになった。
そして迎えた、静かな夜。
男爵邸の自室でイチカが明日の試算や書類仕事に没頭している頃、少し離れた迎賓館では、夜の警備体制が敷かれていた。
エオノーラ夫人やアリスが宿泊している迎賓館の警護のため、ルーカスがその任に就いていたのだ。
静まり返った玄関ホール。
見回りをしていたルーカスと、夜風にあたろうと部屋から出てきたエオノーラ夫人が、ばったりと顔を合わせた。
「あら、ルーカス。こんな夜遅くまでご苦労さまです」
上品に微笑むエオノーラに、ルーカスは静かに一礼する。
「……エオノーラ様。夜分遅くに失礼します。不審な影はありません」
すれ違いざろに去ろうとしたルーカスに対し、エオノーラはふと足を止め、優雅な声でこう切り出した。
「ねえ、ルーカス。もしよければ、サロンで夜鳴きそばでもご一緒しませんこと? あの温かい一杯、夜更けの冷えた体にちょうどいいのよ」
断る理由もなく、ルーカスは無言のままエオノーラに伴われ、迎賓館のサロンへと向かった。
やがて、用意された湯気立つ「夜鳴きそば」の器を前に、二人は静かに箸を進める。
干し貝柱の深い旨味が染み渡る極上のスープを啜りながら、エオノーラは真剣な眼差しをルーカスに向けた。
「……美味いわね。さて、美味しい夜食をいただいたところで、少し現実的なお話をしましょうか」
ルーカスは箸を止めず、無言で続きを促す。
「昨日、王弟殿下から持ちかけられた『北方警備隊』の件。あなた、あれを頑なに断つつもりでしょう?」
「……私はすでに騎士団の人間ではない。国のための剣を振るう気はないと、そう申し上げました」
エオノーラはフッと小さく息をつき、冷徹なまでの現実を突きつける。
「甘いですね。今回は王弟殿下の打診を断れたかもしれないけれど……今後、このムーツ領がさらに発展し、迎賓館に多くの貴族や要人が訪れるようになればどうなるかしら?」
ルーカスの眉がわずかにピクリと動く。
「要人を狙う者、あるいは王国に混乱を引き起こそうとする勢力は、必ず現れるわ。そして、その暗殺者たちが標的にするのは、この領地の心臓部であり、すべての生みの親である――イチカよ」
「っ……」
「今夜のように、あなたが迎賓館の警備に回っていて、イチカが男爵邸にいる。
そんな風に、二人が離れなければならない状況は今後いくらでも起こる。そのとき、側近であるセレナ一人だけで、あらゆる脅威から完璧に彼女を守りきれると言いきれるかしら?」
エオノーラの言葉は、ルーカスの最も恐れている核心を正確に突いていた。
セレナの腕は確かだが、組織的な暗殺や大勢の刺客を相手にするには、一人の護衛では限界がある。
イチカの身に何かがあれば、すべてが終わりなのだ。
「本当にイチカを守りたいと願うのなら……プライドや過去の因縁なんてくだらないものはとっくに捨てているはずよ。
彼女の安全と、この領地の盾になるために、何が最善か考えるべきだわ」
エオノーラはそれだけ言うと、カップに残ったお茶を軽く飲み干し、ふわりと立ち上がった。
「何が一番大事かしっかり考えなさい。……お粗末さまでした、とても美味しかったわ」
それ以上は何も言わず、エオノーラは静かにサロンを去っていく。
広くなった部屋に取り残されたルーカスは、しばらくの間、微動だにしなかった。
やがて、彼は自分の手元を見る。そこには、すっかりスープを飲み干した「夜鳴きそば」の空のどんぶりがあった。
――イチカを守る。そのために、過去の自分を殺し、再び国家の枠組みの中に身を置く。
ルーカスの鋭い眼光の奥に、揺るぎない覚悟の光が灯るのだった。




