迫る王弟の影と魔王の特訓
めくるめくドレスの試着会の末、すっかりアリスの情熱的なプロデュースに付き合わされたイチカがどうにか解放された翌日。
迎賓館のサロンには、再び引き締まった空気が戻っていた。
テーブルには香り高い紅茶と、先日合格点が出たばかりのメープル仕立ての夏秋イチゴジャムを塗ったパンが並んでいる。
その傍らには、いつもと変わらぬ凛としたたたずまいでイチカに寄り添うように、側仕え兼護衛であるセレナの姿があった。
しかし、エオノーラ夫人は優雅にカップを傾けながら、その美しい双眸でじっとセレナの姿を捉えたまま、鋭い口を開いた。
「イチカ。昨日の今日で不躾な質問かもしれないけれど……間近に迫った王弟殿下の御成りに向けて、今のこの領の体制に何か『見落としている不備』があるとは思わないかしら?」
唐突な問いかけに、イチカは首をかしげた。
「ええと……晩餐会のメニューも順調ですし、宿泊する迎賓館の設備も完璧です。
サーモンの仕入れもブルーフォレスト伯爵との連携も上手くいっていますし、思い当たるような大きな不備は……」
イチカが正直に首を横に振ると、エオノーラはふうっと小さく息をつき、静かに首肯した。
「そうね、あなたたちのこれまでの働きぶりは文句のつけようがないわ。だけどね、王弟殿下という最高位の賓客をお迎えするとなれば、話は別よ」
エオノーラが問題視したのは、日々の運営を支える「人手と作法」の細部だった。
現在、迎賓館の給仕は「シルバー部隊女性部」のメンバーたちが担当している。
彼女たちの働きぶりは非常に丁寧で誠実であり、普通の来客であれば十分すぎるほどの温かいおもてなしを提供してくれていた。しかし――。
「王弟殿下をお迎えする宮廷の格式において、あの丁寧さだけではまだ『不十分』と言わざるを得ないわ。だが、それ以上に私が最も問題視しているのは……他でもない、今あなたのそばに控えている、そのセレナのことよ」
「えっ……私ですか?」
すぐ隣に控えていたセレナが、突然自分の名を挙げられて小さく目を見開いた。
「ええ。護衛としての腕前や、イチカへの忠誠心については文句のつけようがないわ。命を賭して守ろうとしているという点においては満点よ。だけどね、メイドとしての資質はどうかしら?」
エオノーラは目の前に本人称えつつも、冷徹なまでの冷静さでその課題を並べ立てた。
「王族や最高権威の前に立つ者としての洗練された言葉遣い、そして主人の指示を待つだけでなく『先回りして次の動きを読む行動力』……それらの基準に照らし合わせた時、あの子のメイドとしての評価は、残念ながら『0点』をつけざるを得ないわね」
護衛としては超一流であっても、最高峰のサロンを仕切る宮廷メイドとしては、あまりにも粗削りで経験が足りない。
このままでは、王弟殿下の前で不手際を指摘され、シモキタール男爵領全体の恥になりかねない
――エオノーラの言葉には、確かな真実と容赦のない現実があった。
「せっかくここまで素晴らしい領地に育ち、極上の文化が芽生えているというのに、足元ですべてを台無しにしては意味がないわ。……というわけで、決まりね」
エオノーラはスッと紅茶のカップを置き、どこか楽しげな、まさに「魔王」を思わせる微笑みを浮かべた。
「今日から、我が王都仕込みの側仕えたちに命じて、セレナに対する徹底的なメイド再教育を行うわ。覚悟しておきなさい」
その宣告を聞いた瞬間、主のすぐ傍らに控えていたセレナは、逃げ場のない現実に直面してピキリと全身を硬直させ、理由も分からぬまま背筋を凍らせてブルっと身震いするのだった。
王弟来訪まであとわずか、迎賓館の裏側では、エオノーラによる厳しくも容赦のない「魔王」のスパルタ指導の幕が上がろうとしていた。




