夜の静寂と極上の一杯
静まり返った深夜の厨房。
暖炉の火が落ちたひんやりとした空間で、苺香はひそかに一人、鍋に向き合っていた。
(どうしても……王弟殿下をお迎えする迎賓館の夜に、あれを入れたいのよね)
どうしても再現したかったのは、特定のホテルチェーンが提供していた至福の夜食サービス
――「夜鳴きそば」だった。
前世、その優しい醤油の香りと夜食という背徳感の虜になり、そのサービス目当てでいつも決まって同じ系列のホテルを予約していたほどだ。
要人との会談や気を遣う歓待の夜、すべてが終わったあとに胃に染みわたるあの温かい一杯があれば、どれほど心と体が救われたことか。
「ふふ、もちろんムーツにある手持ちの材料で、完全にあの味を超えてみせるわ」
脳内ですでにレシピのピースは噛み合っていた。
麺には、温泉成分(湯の花)を活用した特製の手打ち麺。
タレ(返し)には、北海の恵みから仕込んだ濃厚な魚醤。
スープのベースには贅沢に干し貝柱の旨味を凝縮させ、トッピングのチャーシューには、あの氷室熟成のワイルドボアを香ばしく炙って添える。
翌日、昼下がり。迎賓館の厨房には、試作品の完成を心待ちにする面々が集まっていた。
テーブルの中央には、湯気をあげる丼が一つ。
琥珀色の透き通ったスープに、少し縮れた美しい自家製麺、そして香ばしいワイルドボアのチャーシューが鎮座している。
「イチカ、一体これは……? 昼間から、なんとも食欲をそそる芳醇な香りがしているじゃないか」
味見役として呼ばれたルーカスが、ごくりと喉を鳴らしながら丼を覗き込む。
その隣には、エプロン姿のメイドであるセレナが、静かに感心したような目を向けていた。
「これね、王弟殿下との晩餐のあと――夜の静けさの中でこっそりお出しする、秘密の『夜食』の試作品よ。名付けて、『夜鳴きそば・ムーツ特製仕立て』!」
苺香が胸を張ると、傍らでは幼い妹のエリスが「夜鳴きそば……?」と首をかしげ、その足元では子グマのルナが「クゥ……」と美味しそうな匂いに釣られて鼻をひくひくさせている。
「さあ、まずは食べてみて! 麺のコシと、スープの味を確かめたいの」
合図を受けて、ルーカスが箸を手に取り、まずはスープを一口、そして麺をすする。
「――っ!」
ルーカスの全身がビクッと激しく震えた。
その瞳孔が開き、彼の脳裏で雷鳴が轟くような衝撃が走る。
(な、なんだこの感覚は……っ!?)
ルーカスの背後から、突如として幻の黄金色の光が溢れ出し、夜の静寂が波の音と荘厳な琴の音色へと変わったような気がした。
彼の脳内では、北海の荒波を力強く泳ぐ巨大なマグロやワイルドボアが黄金の海原をダイナミックに跳ね回り、その圧倒的な生命力が彼の味覚を物理的に殴りつけてくる。
「うまああああああああいっっ!!!」
ルーカスは天を仰ぐようにけぞり、両手を大きく広げて叫んだ。
口に入れた瞬間、干し貝柱の底知れぬ旨味と魚醤の芳醇なコクが一体となって全身の神経を駆け巡る。
さらに、温泉成分の湯の花で打たれた麺の圧倒的なコシと喉ごしが、スープの旨みを余すところなく絡め取っていく。
「なんだこのスープの深みは……! 干し貝柱の旨味と魚醤のキレが、夜の胃袋に染み渡るように溶けて消えるぞ……っ! 旨みが脳天まで突き抜ける……これが夜食だと……っ、こんなの背徳的すぎる美味さだぁッ!!」
あまりの美味しさに、ルーカスの背中にはなぜか気高き「味皇」の如き気迫のオーラが宿り、目を見開いたまま魂が抜けかけたように固まっている。
突如として始まったその劇的な変貌に、一同はポカンと口を開けた。
エプロン姿のメイドであるセレナは手元のメモ帳に「護衛の味覚暴走による精神的興奮状態の記録」と冷静に書き留め、
エリスは「ルーカスさんがまたすごいことになっちゃった……」と目をパチクリさせ、
ルナはあまりの気迫に「キュキュッ!?」とイチカの足元へピタッと隠れた。
「こ、これはただの夜食ではない……! 王都の美食家どもをひれ伏させ、国家間の絆をも繋ぎ止める、魂の救済の麺料理だぁっ!!」
味皇へと化したルーカスは、自らの両手で顔を押さえながら、再び天に向かって絶叫する。
その顔には、先ほどまでの冷静な護衛の面影はなく、ただ純粋な「美味への感動」に打ち震える男の姿があった。
「あ、味皇様……!? い,一体どこからその力が……!」
苺香がツッコミを入れる間もなく、味皇はきらめく瞳でドンッと苺香に歩み寄り、その両手をガッチリと掴んだ。
「イチカ! いや、我が味の導き手よ! この夜鳴きそばならば、世界を平和にできる……! いや、俺がこの一杯のために明日からでも王国軍を辞めて常連客になってやろう!」
「もう支離滅裂で何言ってるか分からないでしょ!」
盛大なボケとツッコミの嵐のなか、簡素な厨房はかつてないほどの熱気と笑い声に包まれるのだった。
王都の贅沢な晩餐で度肝を抜いたあと、さらに深夜の隠し球としてこの「夜鳴きそば」を振る舞う――。
好意的な王弟殿下の心を完全に掴み、ムーツの本当の豊かさを刻み込むための計画は、こうして伝説的な盛り上がりを見せながら完璧な形へと仕上がっていったのだった。




