ムーツの夜と世界の輪郭
アルスター公爵夫人エレオノーラとアリスの一団が王都へと帰路についた後、ムーツの領地には久しぶりの静けさが戻っていた。
巨大な迎賓館と男爵邸の建て替えという途方もない一大プロジェクトの影で、苺香は自室の机に向かい、羽ペンを走らせていた。
ふと手を止め、窓の外に広がる夕闇に染まった山並みを見つめながら、心のなかで小さく息をつく。
(……それにしても、私、この世界のことをまだ全然わかってないんだよね)
日本からこの場所に飛ばされて以来、目の前の生活を維持するため、そして生き抜くために必死でがむしゃらに走ってきた。
温泉を掘り、温室を作り、お菓子を開発し……気づけば周りにはたくさんの人が集まるようになっている。
けれど、ふと立ち止まってみると、この世界そのものの仕組みや常識について、自分は驚くほど無知だった。
苺香は部屋の扉を軽く叩いて入ってきたルーカスさんを振り返り、思い切って胸に抱いていた疑問をぶつけてみることにした。
「ねえ、ルーカスさん。ちょっと変なこと聞いてもいい? この世界ってさ……定番のスライムとかって、いる?」
「は? すらいむ?」
ルーカスさんはぴくりと眉を寄せ、酷く怪訝そうな顔をした。
「聞いたこともねえな。……柔らかい泥の化け物でもお望みか?」
「あ、ううん、こっちの独り言! じゃあ、ゴブリンとかゴーレムとかは?」
「ごぶりん、ごーれむ……? いや、古代の魔導人形の伝承なんかは文献にあるが、そんな魔物が野良でうろついてるなんて話は聞いたことねえな」
(なるほど、ファンタジーの定番お約束は意外といない世界らしい……。妙なところで現実的というか、泥の化け物がいないのは少し安心かも)
苺香は内心でそう納得しながら、さらに話を続けた。
「そっか。じゃあ、どんな魔物がいるの?」
ルーカスさんの説明によれば、この世界には地球の動物たちが環境に適応し、魔力を帯びて凶暴化した「魔獣」たちが生息しているという。
ここムーツの周辺でも、頑丈な牙と突撃力を持つワイルドボアや、極寒の雪原を駆け抜け群れで獲物を狙うウィンターウルフ、俊敏な動きと鋭い角を持つホーンラビット、そして圧倒的な巨体と怪力を誇る魔熊などが確認されていた。
(――魔熊、か。ツキノワグマみたいなものなのかな。山の奥にはそんな危ないのもいるんだから、ルナみたいな可愛い子グマを野放しにしちゃ危ないよね。もっとも、ルナはすっごくお利口さんだから心配ないけど!)
苺香がルナの愛らしい姿を思い浮かべてほっこりしているとは露知らず、ルーカスさんはさらに話を続けた。
「その魔熊とかって、よく里に降りてきたりするの?」
「いや、普段はあの『オーソレ山』の奥深くを縄張りにしてるけどよ……時折、こうして人里へ下りてくることはあるな。
もっとも、俺や領の者たちが巡回ついでに綺麗に駆除してるから、住民の皆様にご迷惑をかけるようなことはねえよ」
ルーカスさんがフッと不敵に笑いながらそう言い切るのを見て、苺香はさすが百戦錬磨の護衛だと密かに胸をなで下ろした。
(ルーカスさんがいてくれて本当によかった……。この人がいれば、とりあえず身の安全は守られているんだから)
だが、そのルーカスさんの言葉を聞いた瞬間、苺香の脳裏にふと、別のシビアな現実がよぎった。
これまでムーツは、険しい山々に囲まれた行き止まりの土地であり、その先には何もない秘境だった。
ムーツ自体も、かつては何もない寒村に等しい場所だったから、魔獣が出てもルーカスさんたちが個別に処理して事足りていた。
しかし、これからは違う。
温泉迎賓館が完成し、男爵邸も新しくなり、王弟殿下の視察さえ控えている。
さらに一大リゾート地として人が集まれば、当然ながらこれまでの「何もない静かな土地」ではいられなくなる。
(人が集まる、経済が動く……となれば、治安の維持や、外からの脅威に対する備えが絶対に個人プレイじゃ追いつかなくなるわよね……)
魔獣の侵入を防ぐ防衛体制はもちろん、急増する移住者や商人、そして要人たちを護るための組織的な警備。
もはやこの小さな領地の自前だけで何とかできる規模を越えつつあった。
イチカはキリッと引き締まった表情になり、目の前のルーカスさんに向き直った。
「ルーカスさん。これからのムーツの発展を考えると、魔獣対策も含めて、もっとしっかりとした警備体制を整えないといけないわね」
「だな。人が集まれば、好ましくねえ連中を引き寄せる可能性も高まるしよ」
「うん。この地域の安全と今後の防衛について、正式に相談に行きましょう。このあたりの有力な貴族である――ブルーフォレスト伯爵のところへ」
ムーツの未来を見据え、イチカは力強くそう決断するのだった。




