新たな風そしてロベルトの派遣
大盛況のうちに幕を閉じたアルスター公爵邸のお披露目茶会から数日後。
王都を発ち、ムーツ領へと戻る直前、イチカは挨拶のためエオノーラ夫人のもとを訪れていた。
「エオノーラ様、本当にお世話になりました。『ルナ・ソレイユ』をここまで導いてくださり、感謝してもしきれません」
応接室で深く頭を下げるイチカの言葉に、エオノーラ夫人は優雅に微笑みながらカップを置いた。
「顔を上げなさい、イチカ。あなたが自分の実力で掴み取った成果よ。誇りなさい」
穏やかな空気が流れる中、夫人はふと気になったように、今回のムーツ領での生産体制や今後の運営について問いかけた。
「それで、これからムーツに戻ってからのことだけど……。ムーツでの実際の製造はカトリーナの工房が仕切るとして、日々の在庫管理や帳簿、ムーツでの販売の切り盛りは誰がやっているの?」
「はい。今のところは、村の皆の協力をもらいながら、私が仕入れや経理の計算などを担当しています」
イチカがそう答えると、夫人の傍らに控えていた執事が、先日同行することになったセレナのプロフィールを記した書類を差し出した。
夫人はそれに目を通し、なるほどと納得したように頷く。
「なるほどね。元騎士のセレナを護衛兼メイドとして側に置くというのは賢明な判断だわ。彼女の腕と忠誠心なら、不測の事態でもあなたをしっかり守ってくれるでしょうね」
セレナの人選に納得の表情を見せたエオノーラ夫人だったが、ふと、腕を組んで思案深げな表情に変わった。
「けれど、イチカ。今はまだ小規模だからあなた一人で経理や事務も回せているけれど、今回の王都での大反響を見ればわかるでしょう?
これから『ルナ・ソレイユ』の規模は爆発的に大きくなるわ。そうなったとき、現場の指揮もブランドの経営も、すべてを一人で背負うことなど物理的に不可能になる」
「っ……それは……」
図星を突かれたように、イチカはわずかに言葉に詰まった。
確かに、これ以上販路が拡大し、王都や他の領地とのやり取りが増えれば、今の体制ではパンクしてしまうのは目に見えている。
夫人は静かに、しかし有無を言わせぬ決断の光を瞳に宿して告げた。
「というわけで、もう決めたわ。うちの三男――ロベルトを、あなたの元へ行かせることにするわ」
「え……っ!? ロベルト様を、ムーツにですか……!?」
予想外すぎる提案に、イチカは思わず目を見開いて声を裏返らせた。
アルスター公爵家の三男といえば、優秀な商才と冷静な判断力で将来を嘱望されている気鋭の若き貴族だ。
そんな雲の上の存在のような人物が、どうして辺境のムーツ領に――?
「あの子はね、机上の空論よりも現場で実地を学びたいと言って聞かないのよ。ちょうどいいわ。あそこのムーツ領であなたと一緒に汗を流し、商売の基礎から泥臭い実務まで徹底的に叩き込まれてくるといいわ」
夫人の口ぶりは「相談」ではなく「決定事項」だったが、その声の響きには、イチカの事業を本気で支え、守り抜こうとする深い愛情が込められている。
「……ありがとうございます、エオノーラ様。ロベルト様が来てくださるなら、こんなに心強いことはありません」
イチカが深々と頭を下げると、夫人は満足そうに微笑んだ。
その後、出発の準備を整えたイチカは、ルーカス、そして新たな相棒となったセレナと共に、王都を後にする馬車へと乗り込んだ。
背後には、かつての自分を縛り付けていた冷酷な王都の街並み。
しかし今のイチカの心にあるのは、温かな絆と、未来へ向けた確かな希望だけだった。
揺れる馬車の窓から遠ざかる王都を見つめながら、イチカは心の中でそっと呟く。
――さあ、私たちのムーツ領へ帰ろう。新しい仲間たちと共に、もっと素敵な未来を作るために。




