気高き返り咲き、そして結ばれる絆
「あら――」
甘い香りが漂う優雅な庭園の一角で、甘ったるい、しかしどこか聞き覚えのある声が響いた。
そこに立っていたのは、アイリ男爵令嬢だった。
高級なドレスを着飾ってはいるものの、アルスター公爵家が用意したイチカの圧倒的なドレスの気品の前には、どこか色褪せて見える。
その隣には、気怠げでありながらも不遜な目を向けたレナードが控えていた。
「驚いたわ、イチカ様ではありませんこと? 確か実家を追い出されて、田舎の村に逃げたはずじゃなくて……まさか、こんな高貴なお茶会に顔を出せる身分だなんて思っていませんでしたわ」
アイリは口元に扇子を当て、これみよがしにクスクスと笑ってみせる。
周囲にいた他の貴族たちの視線が、わずかにこちらに集まった。
彼女の狙いは、かつての婚約破棄の件を持ち出し、イチカを再び社交界の笑い者にすることだった。
しかし、かつてのイチカであれば、その場で震え、うつむいていたかもしれない。
だが、今のイチカには、エオノーラ夫人の教えがあり、カトリーナの想いが詰まったブランドがあり、そして背中を預けられる仲間たちがいる。
何より、公爵家の威信を背負う「戦場」に立つ者としての誇りがあった。
イチカは一歩も引かず、冷徹なまでの気高さを宿した瞳でアイリをまっすぐに見据えた。
「――おや、アイリ様。人の噂話に夢中になるのは結構ですが、少し視野が狭いのではないかしら?」
「なっ……!?」
予想外の冷たい声音と、見下ろすような気高い視線に、アイリは息を呑んでたじろいだ。
イチカはフッと美しい笑みを浮かべ、さらに言葉を重ねる。
「私がいまどこで何をしているのか、この王都でどんなブランドが話題になっているのかもご存じないの? ……まあ、井の中の蛙に、広い世界のことは分かりませんわね」
レナードが、顔色を変えて一歩前に出ようとしたその時――。
「ほう? 我がアルスター公爵家が招いた大切な商談相手を、どこの馬の骨とも知れぬ者たちが捕まえて、一体何の用かしら?」
氷のように冷たく、それでいて圧倒的な権力を感じさせる声が、周囲の空気をピリリと凍らせた。
スッと歩み寄ってきたのは、他ならぬエオノーラ夫人だった。その傍らには、心配そうに様子を伺うアリスの姿もある。
最強のバックテーターの登場に、
レナードとアイリの顔からサーっと血の気が引いていく。
アルスター公爵夫人の名が聞こえた瞬間、周囲の貴族たちも一斉に息を呑み、ピリリと張り詰めた緊張感がその場を支配した。
「エオノーラ様……! こ、これはその、ただ以前の知り合いにご挨拶を……」
アイリは先ほどまでの余裕をどこへやら、青ざめた顔で必死に取り繕おうとする。
しかし、エオノーラ夫人は彼女を一瞥すらしない。その冷ややかな視線は、ただ真っ直ぐにレナード――グラディス公爵家の嫡男に向けられていた。
「グラディス家の若造ね。我が公爵家の庇護の下にあるブランド『ルナ・ソレイユ』の功労者に対し、無礼な物言いをしているのはそちらの連れかしら?」
「っ……! エオノーラ夫人、誤解です。我々はただ……」
レナードが焦りながら言い訳を絞り出そうとするが、エオノーラ夫人はふん、と鼻で笑ってそれを一蹴した。
「弁解はのちほど当主同士の場でお聞きなさい。……それとも、我がアルスター公爵家に喧嘩を売っていると受け取ってもよろしくて?」
その一言に、レナードはもはや一歩も動けなくなった。
公爵家同士の権力闘争において、アルスター家に明確な敵対の意思を示したとなれば、グラディス家全体の命取りになりかねない。
冷や汗を流すレナードを尻目に、エオノーラ夫人はすっとイチカの肩に優しく手を添えた。
「行くわよ、イチカ。こんな下品な連中の相手をしている暇はないわ。今日の主役はあなたなんだから、胸を張りなさい」
「はい、お母様……いいえ、エオノーラ様」
言い間違えたことに気づき、イチカはパッと目を見開いてハッと息を呑んだ。
直前まで心の中で「亡き母の面影」を重ねていたとはいえ、あろうことか本人の前で「お母様」と口走ってしまったのだ。
恥ずかしさで頬が一気に真っ赤に染まり、イチカは慌ててブンブンと首を横に振った。
(やっ、やっちゃった……! どうしよう、公爵夫人に対してなんて失礼な……!)
冷や汗を流しながら「いまのは聞き流してください……!」と謝ろうとしたその時。
エオノーラ夫人は足を止め、ふっとその美しい顔を驚きに染めた後、まるで愛しい我が子に向けるような、これ以上ないほど柔らかく慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ふふ……。そう呼んでくれても、悪くはないかしら」
「え……?」
思いがけない言葉に、イチカがぽかんと瞬きをする。
夫人は優しく微笑みながら、イチカの頭をそっと撫でた。その眼差しには、冷徹な権力者としての顔は一切なく、ただ温かい母親の愛情だけがあった。
胸の奥がキュッと熱くなり、先ほどまでの緊張や不安がすべて溶けていくような感覚に包まれる。
――本当に、この人はあの母に似ている。
イチカは嬉しさがこみ上げてくるのを抑えきれず、今度は恥ずかしさではなく、あふれそうなほどの満面の笑みを咲かせた。
「はいっ……! エオノーラ様!」
力強く返事をしたイチカの顔には、もう迷いも恐れもない。
すれ違う瞬間、アイリが悔しそうにスカートの裾を強く握りしめるのが見えたが、もはやイチカの心がかき乱されることはなかった。
捨てられた男爵令嬢から、王都を席巻するブランドの若き旗手へ
――そして、温かな家族の絆を手に入れた彼女の背中は、かつて彼女を嘲笑った者たちの目に、あまりにも眩しく焼き付いたのだった。




