最北端の覚醒と、小さな相棒
冷たい風が容赦なく吹き荒れるムーツ領。このままでは、今夜の寒さすら超えられない。
私は凍えるエリスと膝をつく父様を廃屋に残し、暖をとるための薪を探して一人で近くの森へと足を踏み入れた。
足元の落ち葉は凍りつき、拾えるような乾いた枝など見当たらない。
(薪……薪を探さなきゃ……!)
焦る一心で奥へ奥へと進み、斜面に落ちていた太い枝に手を伸ばした、その時だった。
ザザッ……!
「きゃっ……!?」
湿った腐葉土が崩れ、足元が大きく空を切った。
視界が激しく回転し、私は斜面を転げ落ちていく。
頭に強い衝撃が走り、暗闇の中へと意識が沈みかけた――その瞬間。
ズキンッ……!!
頭の中で、弾けるような激しい衝撃が走った。
それと同時に、見たこともない風景や膨大な情報が、怒涛の濁流となって脳内に流れ込んできた。
高いビル群、濡れた新幹線の窓、そして理不尽な濡れ衣を着せられて会社を追われた「野原苺香(28歳)」としての人生――。
「う……っ……」
うっすらと目を覚ますと、そこは斜面の下の小さな谷間だった。
頭の痛みをこらえながら身体を起こす。
(なんなの……今の記憶……。これが私の『前世』……?)
あまりの情報量に困惑しながらも、頭の中には28歳として培ったPRやマーケティングの高度な知識、そして実家のイチゴ農家で学んだ自然の知恵が、鮮明に残っていた。
不毛の地へ追放され、ただ絶望するだけだった私の心に、前世の自分が持っていた「絶対に諦めない強さ」が灯っていく。
「……え?」
ふと視線を上げると、数歩先で大きな黒い塊が横たわっていた。
胸に白い月の模様を持つ、巨大なツキノワグマ。
けれど、その大きな体は冷たくなり、すでに息絶えていた。
その巨体の傍らで、小さな黒い塊
「キュゥ……キュゥ……」
と細い声で泣いていた。
ツキノワグマの、まだ赤ん坊のような子グマだった。
冷たくなった母親の体に小さな頭をすり寄せ、震えている。
「あ……」
その姿が、廃屋で寒さに震えていたエリスの姿と重なった。
思わず一歩踏み出した瞬間、子グマがビクッと体を硬くし、威嚇するように小さな牙を剥いて唸った。
「ウゥー……ッ!」
親を失った恐怖と警戒心で、毛を逆立てている。
(どうしよう……近づけない……でも、このまま放っておいたらこの子も凍死しちゃう……)
その時、スカートのポケットの中にゴロッとした硬い感触があることに気づいた。
手を入れて引っ張り出すと、そこにあったのは――。
「これ……前世で持っていた、あのイチゴジャム……!?」
なぜこんなところに入っていたのか分からない。
けれど、前世の記憶の最後で握りしめていたあの小ビンが、確かにそこにあったのだ。
赤いジャムの中で輝く、豊かな太陽とイチゴの甘い香り。
私はビンの蓋を開け、指先に少しだけ甘いジャムを塗ると、静かにしゃがみ込んで指を差し出した。
「怖くないよ……おいで。美味しいよ」
フワリと漂うイチゴの甘い香りに、子グマの鼻先がピクッと動いた。
クンクン……と警戒しながら鼻を鳴らし、少しずつ、少しずつ私へと近づいてくる。
そして――ペロッ。
小さなピンク色の舌が、私の指先のジャムを舐めた。
「ウミュ……?」
瞬間、子グマの目が丸くなった。
食べたこともない甘美なイチゴの味に、驚きと感動で目がキラキラと輝き出す。
「キュゥ~!」
それまでの警戒心が嘘のように、子グマは私の膝に飛びついてくると、もっと頂戴と言わんばかりにすり寄ってきた。
「ふふ、気に入った? 美味しいでしょ」
子グマを優しく抱き上げると、温かい体温が伝わってきた。
王都の連中は、この最北端を「何もない不毛の地」と笑った。
レナードたちも、今頃温かい王都で私を嘲笑っているのだろう。
(……見ていなさいよ)
(前世の知識とこの手があれば、こんな絶望、絶対にはね返してみせるんだから!)
「よし決めた! 君も今日からうちの家族! 一緒に来て!」
「キュゥ!」
私は子グマをしっかりと抱きかかえ、足元に落ちていた乾いた太い薪を数本担ぐと、家族が待つ廃屋へ向かって力強く歩き出したのだった。




