最北端の廃屋で
ガタガタと打ち付けられる馬車の振動が消え、静寂が訪れたのは、王都を出てから丸二週間が経った頃だった。
「……着いたぞ。ここがシモキタール男爵家の新しい領地、ムーツ領だ」
御者台からの冷淡な声に押し出されるように、私たちは馬車から降り立った。
その瞬間、刃物のように鋭い冷風が肌を叩いた。
「ひっ……!」
「寒ぃ……おねえさま、寒いよぉ……っ」
薄手のドレスしか着ていないエリスが、がたがたと唇を紫にして震え上がる。私は慌てて自分の羽織を脱ぎ、エリスの小さな体に巻き付けた。
けれど、私の体も凍えるような寒さに震えが止まらない。
目の前に広がっていたのは、私たちが言葉を失うほどの「絶望」だった。
「な……なんだ、これは……」
父親のルキウスが、カサカサに乾いた声を漏らした。
そこに広がっていたのは、領地と呼ぶにはあまりに虚ろな光景だった。
見渡す限りの荒涼とした大地。
枯れ草が寒風にそよぐ平野の向こうには、灰色の冷たい海と、険しくそびえ立つ黒い山々。
あちこちに民家らしき木造の家屋が見えるが、どれも屋根が腐ちかけ、壁には大きな隙間が空いている。
人影はほとんどなく、たまに見かける住人も、破れた布を纏った痩せ細った老人ばかりだ。
「おや、新しい領主様ですかな」
ガサツな足音とともに現れたのは、腰の曲がった一人の老人だった。
元代官だと名乗るその老人・アルフレッドは、濁った目で私達をチラリと見下ろすと、あくびを噛み殺しながら言った。
「見ての通り、ここには何もねぇですよ」
「昔は古い砦があって少しは賑わったのですがね、今じゃ若者はみんな暖かな南の街へ出て行っちまった」
「残っているのは動けねぇ年寄りと、頑固で言葉の通じねぇ沖の漁師くらいだ」
「そ、そんな……! 役場や、私たちが暮らす屋敷はどこにあるのだ!?」
父親がすがるように尋ねると、アルフレッド老人は丘の上にある一軒の古い建物を指さした。
「あそこの廃屋が、歴代の領主様が使っていた『領主館』です」
「手入れなんざ何年もしてねぇから、雨漏りはするし、風は吹き抜ける」
「……ま、凍死しねぇように薪でも拾ってくるこっちゃな。じゃ、俺はこれで」
老人は面倒そうに背を向けると、足早に去っていってしまった。
残された私たちは、呆然と丘の上の「屋敷」を見上げた。
腐ちかけた木材と、半ば崩れ落ちた石壁。扉は歪んで固く閉ざされ、敷地内には雑草が生い茂っている。
「う、嘘だ……こんなところで、どうやって暮らせというんだ……」
父親はその場に膝をつき、泥で汚れた地面に両手をついた。
「資金も、王都から持ってきたわずかな金貨しかない……」
「食料も数日分の硬いパンがあるだけだ」
「畑を耕そうにも、この痩せた土と冷たい風では何も育たない……!」
「イチカ……私には、どうすればいいのか分からない……何も、何もできないんだ……っ!」
大人の父親が、子供のように声を漏らして泣き始めた。
(どうしよう……どうしたらいいの……?)
私の胸の中で、焦りと恐怖が泥水のように広がっていく。
「妹を守る」と、馬車の中では強く心に決めた。
でも、現実のムーツ領は、18歳の私が想像していた「不便な田舎」なんて甘いものじゃなかった。
風を遮る屋根すらない。
暖をとる薪もない。
明日食べる食べ物すら、どこで手に入れればいいのか分からない。
手元にあるのは、王都から持ってきたわずかな日用品と、何の役にも立たないドレスばかり。
「お腹すいたよ……」
「おねえさま、寒い……おうち帰ろう……?」
エリスが私の服を引っ張りながら、泣きじゃくる。
その小さな手は冰のように冷たかった。
「エリス……大丈夫よ、大丈夫だから……」
抱きしめる私の声も、寒さと情けなさで激しく震えていた。
(何から手を付ければいいの……?)
(家の修理? 食料の調達? それとも寒さを凌ぐ方法……?)
(分からない、何も分からない……!)
どこを見渡しても、死と隣り合わせの厳酷な冬の景色があるだけ。
知識も、力もない18歳の私には、目の前の小さな妹を温めてあげられる当てもない。
圧倒的な現実の厳しさと、己の無力さ。
冷たい風が吹き荒れる廃屋の前で、私たちはただ肩を寄せ合い、途方に暮れて立ち尽くすことしかできなかった。




