悪夢の果てに
ガタガタガタッ!
激しい揺れと、後頭部を襲った硬い木板の感触で、私は弾かれたように目を覚ました。
暗く狭い空間。鼻をつく土と馬の臭い。耳をぶつける硬い木の天井。
(……私、いつの間に眠っていたの……?)
「イチカ、大丈夫かい!? 急に馬車が跳ねてしまって……すまない」
目の前に座っていたのは、豪華だがあちこち草臥れた服を着た父親――ルキウスだった。申し訳なさそうに私の顔を覗き込んでいる。
「おねえさま……どこいくの? おうちにかえりたい……」
私の隣で、泣きそうな顔で私の服の裾をぎゅっと握りしめていたのは、まだ九歳にもならない幼い妹のエリスだった。小さな体が、不安と恐怖で小刻みに震えている。
「エリス……」
私はとっさにエリスの華奢な肩を抱き寄せた。
エリスの体温を感じた瞬間、先刻までの悪夢のような出来事が、冷たい現実となって私の胸を強く締め付けた。
――ほんの数日前の、王都での出来事。
『イチカ・フォン・シモキタール!、 君との婚約は、今この瞬間をもって破棄する!』
華やかな夜会の会場で、私の婚約者である公爵家嫡男・レナード様が冷たく言い放った。
その隣には、可憐な笑みを浮かべた男爵令嬢の『アイリ』がしがみついている。
『アイリが準備していた大切な献上品を割り、彼女の手に怪我を負わせた悪毒な女め!』
『そんな……私はやっていません! 献品室には入ってもいません!』
私が必死に訴えても、誰も聞いてくれなかった。
献品室の鍵を持っていたのはアイリ本人だったし、割れたガラスの横に落ちていた私のハンカチは、数日前にアイリから『貸してほしい』と言われて渡したものだった。
最初から、私を陥れるために仕組まれた冤罪だったのだ。
けれど、権力を持たない我が男爵家に反論の余地はなかった。
貴族社会の陰謀に巻き込まれ、シモキタール男爵家は財産をほぼ全て没収。
十八歳の私と、何も分からない幼いエリス、そして優しいだけが取り柄の父親は、王都から追放されたのだ。
「……父様。私たち、どこに向かっているの?」
震える声で尋ねると、父親は涙を浮かべて肩を落とした。
「……最北端の『ムーツ領』だ。王都から遠く離れた、不毛の僻地だよ。イチカ……すまない。まだ十八のお前や、こんなに幼いエリスにまで苦労をかけて……私の力不足だ……」
「ムーツ……」
聞いたこともない土地の名前だった。
「そこは……一年中冷たい風が吹き荒れ、土は痩せ、名産品など何一つない寂れた場所なんだ。手元に残ったわずかな資金で、幼いエリスをどうやって育てていけばいいのか……」
父親は完全に参ってしまい、頭を抱えて震えている。
状況がよく分かっていないエリスは、父親の異様な様子と殺風景な外の景色に怯え、私の膝に顔をうずめて
「おねえさま、こわいよぉ……」とぐずり始めた。
寒くて、遠くて、何もなくて、全てを奪われた最果ての地。
大人は絶望に打ちひしがれ、子供は怯えている。
(あぁ……どうしよう……どうしたらいいの……?)
冷や汗が背中を伝う。
理由も分からず追放された幼いエリスが、寒さとひもじさで病気になってしまったら? 立ち直れない父親の代わりに、誰がこの子を守るの?
私だって、まだ十八歳だ。恐怖で足がすくみそうだった。
でも、私の服を必死に握りしめるエリスの小さな手を感じたとき、胸の奥で何かが静かに決弾した。
(泣いている場合じゃない。私がしっかりしなきゃ、この子は死んでしまう……!)
「……父様、諦めないで」
私はぎゅっとエリスの小さな体を抱きしめ直し、父親をまっすぐに見つめた。
「どんなに遠くて寒い場所でも、家族みんなで生きていける方法がきっとあるはずです。……ムーツ領には、暖をとるための薪や、食べられる魚や野菜はあるんですよね?」
「え……? ああ、山に行けば木はあるし、海には魚もいるが……だが、王都のような暮らしはとても……」
「十分です。生きられるなら、何だってやってみせます」
私はエリスの頭を優しく撫で、しっかりと馬車の前を見据えた。
「大丈夫よ、エリス。怖くないわ」
「……おねえさま?」
「どんなに寒い場所でも、お姉ちゃんが絶対にエリスを暖かくてお腹いっぱいにしてあげる。……だから、信じて?」
「……うん! おねえさまが一緒なら、こわくない!」
エリスが涙を拭い、ギュッと私に抱きついてきた。
冤罪で全てを失い、最北端の僻地へ追い詰められた家族。
まだ何一つあてはないけれど、私は幼い妹を守るため、そして生き残るために、最北端「ムーツ領」へ向けて強く拳を握りしめたのだった。




