琥珀色のグラスと過去の影
イチカが宿泊先で静かな夜を過ごしていた頃、王都の喧騒から少し外れた一角にある落ち着いたバーのカウンターでは、琥珀色の酒を傾ける二人の姿があった。
グラスを持つルーカスの左隣には、黒を基調とした落ち着いた衣服に身を包んだ女性が座っている。
彼女の名前はセレナ。
かつて王都騎士団でルーカスの部下として仕え、そして恋人だった女性だ。
セレナは左手に上質な絹の手袋をはめていた。それは、彼女の左手にある傷
――騎士としての命取りとなった致命傷を隠すためのものだった。
幸いにも日常生活や軽作業には何の影響もないが、剣を握り、命を張る最前線からは退かざるを得ない傷だ。
「……で、突然呼び出しかと思えば。相変わらず気ままなことで有名ね、元副団長殿」
グラスの縁をなぞりながら、セレナは皮肉めいた笑みを浮かべる。しかしその声音に、刺々しさやトゲはない。
ルーカスは苦笑を浮かべ、手元の酒を一口飲んでから肩をすくめた。
「悪かったな、セレナ。追放された身で、おまけにあの時は色々と余裕がなくて……お前との連絡も絶っちまった。許してくれとは言わないさ」
ルーカスが騎士団を追放されたきっかけとなったあの事件。
奇しくも、セレナがその戦いで左手に深い傷を負い、同時期に騎士団を辞めざるを得なくなった日でもあった。
すべてを失い、行き場をなくしたルーカスと、己の剣を折られたセレナは、そのまま音信不通になっていたのだ。
だが、セレナはルーカスを恨んではいなかった。
当時から彼の背中を見てきたからこそ、彼が背負ったものの重さも、選んだ選択も、どこかで理解していたからだ。
「恨み言なんて今さら言わないわよ。私は私で、今はのんびり生きているんだから」
そう言って、セレナは軽く右手を振ってみせた。
「いまは古い馴染みのつてで、街はずれの武器屋の手伝いをしているわ。剣は振れなくたって、手入れや目利きなら今でも誰にも負けない自信はあるしね」
「武器屋か。お前らしいな」
安心したように目を細えたルーカスは、グラスを置くと、少し真面目なトーンに切り替えた。
「――なあ、セレナ。実は今日、お前に頼みがあって来たんだ。これから俺が保護している、ある女の子の世話をしてくれる『メイド』を探していてな」
「メイド? 私じゃなくて、もっと別の若い子を探したほうがいいんじゃない? 私は元騎士で、しかもこの手だしさ」
「お前がいいんだ。それに、その子の話を聞けば、お前もきっと力になりたくなるはずだ」
ルーカスから語られたのは、グラディス公爵家に理不尽に婚約破棄されながらも、過酷な辺境の地で懸命に立ち上がろうとしている少女・イチカのことだった。
「……ふうん。公爵家に捨てられても、腐らずに自分の足で特産品ブランドを立ち上げようとしている、か。なんだか、話を聞くだけで面白そうな子ね」
セレナは興味深そうにグラスを揺らしながら尋ねた。
「で、そのイチカって子は、あなたにとってどんな存在なの?」
「さあな……」
ルーカスは少し遠い目をしながら、小さく息をついた。
「ただの放っておけない面倒なガキだ。だが、不思議と……昔亡くした俺の妹の面影と、どこか重なるところがあってな」
その言葉を聞いた瞬間、セレナの動きがピタリと止まった。
ルーカスにかつて妹がいたこと、そしてその妹を若くして失っていることを、セレナは深く知っていた。だからこそ、彼がどれほどの想いでその少女を見守り、ここまで連れてきたのかが痛いほど伝わってきたのだ。
セレナはしばらく無言でグラスを見つめていたが、やがてふっと柔らかく、どこか諦めたような笑みを浮かべた。
「……本当に、相変わらずお人好しなんだから。亡くなった妹の代わりなんて言ったらその子に怒られるかもしれないけどさ」
絹の手袋をはめた左手を軽く組み、セレナはまっすぐルーカスを見据えた。
「面白そうじゃない。その『妹みたいな子』の面倒を見る大役、この元騎士セレナが買って出てあげるわ。王都での新しい生活、私がしっかり支えてあげる」
「……助かるよ、セレナ」
ルーカスの飾らない謝辞に、セレナは「お礼はたっぷり美味しいお酒で払ってもらうからね」と悪戯っぽく笑い返した。
静かなバーの灯りの下で、止まっていたふたつの時間が、穏やかに動き出そうとしていた。




