元副団長の沈黙と新たな「お姉様」
温かな余韻に満ちた応接室の中で、エオノーラ夫人の鋭い視線が、ふと一人の男へと向けられた。
長身で鍛え上げられた体躯を持ちながらも、どこか気だげな様子で控えているルーカスだ。
その佇まいから只者ではない気配を察知した夫人は、優雅に紅茶のカップをソーサーに戻すと、静かに口を開いた。
「――そういえば、あなた。ただの村の護衛にしては、随分と背筋の通った立ち振る舞いですね。見覚えがあるような気もしますが……もしや、王都の騎士団で名を馳せていたお方ではありませんか?」
夫人の声には、かつての猛者を見極めるような探るような響きがあった。
元・王都騎士団副団長としての過去を持つルーカスであれば、ここで名を明かされるか、あるいは鋭い尋問が続くところ――しかし、ルーカスはふっと余裕のある笑みを浮かべ、穏やかに言葉を返す。
「おや、光栄ですね。ですが人違いでしょう。私はただの、しがない流れ者にすぎません。堅苦しい過去などとっくに脱ぎ捨てて、今はこうして、甘いジャムやメープルを運んで気楽に生きる方が性に合っていましてね」
育ちの良さがふと滲むような、それでいて一切の詮索を受け付けない巧みなはぐらかし方に、夫人はそれ以上追求するのをやめた。
これ以上探っても無駄だと悟ったのか、あるいはこの男の事情をこれ以上暴く野暮はしないと決めたのか。
夫人はふっと小さく息をつき、それ以上の詮索をスッパリと引っ込めた。
ピリリと張り詰めた空気が和らいだその瞬間、アリスがキラキラと目を輝かせながらイチカにピタリと寄り添った。
「あのね、イチカさん……! 私、決めたんです!」
「急にどうしたんですかアリス様?」
「さま、なんてそんな……! お願いだから、アリスって呼び捨てにしてくださいませ!」
アリスが慌ててブンブンと首を横に振るが、イチカは困ったように柔らかく微笑んだ。
「うーん、でも相手は公爵家のお嬢様だし、いきなり呼び捨てはちょっと……。そうだわ、『アリスちゃん』ならどうかしら?」
「あ……アリスちゃん……」
その響きを噛みしめるように、アリスの頬がふっと朱色に染まる。
決してアリスの望む呼び捨てではないものの、どこか親密で大切にされている響きに、彼女は胸をときめかせた。
「アリスちゃんでいいの。私、今日からあなたのことを『お姉様』って呼ばせてください! もし嫌じゃなかったら、ずっと、ずっとお側に置いてほしいの……!」
アリスは両手を胸の前で組み、子犬がすがるような、しかし真剣そのものの熱い眼差しをイチカに向ける。
王都でも名高いアルスター公爵家の令嬢が、辺境の男爵令嬢にここまで心酔し、「お姉様」と慕い始めたのだ。
後ろで見守っていたカトリーナは「おやまあ……」と目を丸くし、エオノーラ夫人は我が子のあまりの熱烈な懐き様に、思わずやれやれと片手で額を押さえた。
(……うちの子は一体いつの間に、そんな一目惚れのような熱狂的なファンになってしまったのかしら……)
呆れつつも、夫人は娘の嬉しそうな横顔と、少し困惑しつつも温かくアリスを受け止めようとするイチカの姿を見つめた。
二人の間に流れる穏やかな空気は、決して作られたものではなく本物だと分かったからだ。
「……まったく、アリスは本当に気に入った相手には一直線なんですから。仕方ありませんね」
夫人はふっと柔らかく微笑むと、二人に向かって告げた。
「イチカさん、あの子がそこまで言うのですから、気が向くときには話し相手になってあげてください。きっと、あの子にとっても良い刺激になるでしょうから」
「はい、喜んで。アリスちゃんなら大歓迎です」
イチカが優しく微笑みながら答えると、アリスは「やったぁ……!」と花が咲いたような満面の笑みを浮かべ、イチカの腕にぎゅっとしがみついた。
試作品の成功、ブランド「ルナ・ソレイユ」の始動、そして思いがけない新しい絆。
アルスター公爵家の応接室は、これからの大きな飛躍を予感させる、温かな祝福の光に包まれていた。




