領内のざわめきと新たな懸念
総合加工場の建設やメープルシロップの量産、そして王都での後ろ盾獲得と、ムーツ領が急ピッチで発展していくその裏で、領内の体制維持は深刻な課題を迎えていた。
村を見下ろす丘の上に建つのは、古びた領館を最低限だけ補修した、質実剛健すぎる建物だった。
使い込まれた床板は歩くたびにきしみ、壁の染みや剥がれた漆喰の跡には、これまでの寒村の厳しかった歴史がそのまま刻まれている。
その一室である執務室で、ルキウスは深くため息をつき、手元の書類から顔を上げた。
向かいの席に座るルーカスもまた、渋い顔をして木製の机に肘をついている。
「……ルキウス殿。あなたも、最近のイチカの様子をご覧になっていますか?」
「あぁ。朝早くから夜遅くまで工房や加工場に詰めて、食事もそこそこに新しい試作や領政の指示を出している。見ていられないほど多忙を極めているな」
ルーカスは心配そうに眉間を寄せると、さらに深刻なトーンで言った。
「あの子ほどの才覚と立場があるというのに、身の回りの世話をする専属のメイドすらいないのはどう考えても異常だ。いつか体を壊しかねん。だが、私の知る限り、この静かな辺境の地で、あの妥協のないイチカにふさわしい作法と信頼を持ったメイドの伝手などありません……」
ルキウスはテーブルに腕を組み、頭を抱えた。
「俺も色々と探ってはみたが、この北の地で育った者では王都の貴族たちとも渡り合えるような細やかな気配りは難しいし、かといって外部から連れてくるにも身元が確かな者でなければ危険だ。お手上げだな……」
「でしたら、私がひと肌脱ぎましょう」
ルーカスは力強く鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「私の知人を片っ端からあたってみます。時間はかかるかもしれませんが、イチカに相応しい優秀な人材を必ず探し出してみせますよ」
ルキウスは少しだけ表情を和らげ、かつて王都騎士団の副団長を務めながらも理不尽に追放され、この地に流れ着いた男――ルーカスに力強く頷きを返した。
だが、ルーカスの表情はすぐに再び引き締まる。メイドの件だけではない。これからムーツ領が直面する、さらに大きな問題が控えていたからだ。
「……それともう一つ、深刻な問題があります。今回のメープルシロップや、これから始まる夏秋イチゴの栽培が軌道に乗れば、王都から商人や貴族、さらには働き手を求めて移り住む人間がこの村に押し寄せるのは確実だ」
「確かに……。今のムーツ領の宿泊施設や治安体制では、とても対応しきれんぞ」
「ええ。これまでは村の有志や男衆が手分けして警備や雑務を回してきましたが、人が増えればそれだけトラブルも増えます。
宿屋の建設はもちろん、村の治安を守るためのしっかりとした警備組織、そして外部からの来訪者を管理する仕組みを早急に整えなければなりません」
イチカが知らぬところで、ムーツ領の中枢を支える男たちは、急速な発展の影で生まれる歪みと未来への備えについて、熱い議論を交わし続けていた。




