氷の貴婦人と甘い香りの罠
王都の中心にそびえ立つアルスター公爵邸の応接室は、息が詰まるほどの緊張感に満ちていた。
重厚なマホガニーの扉が開き、足音ひとつ立てずに現れた主――公爵夫人エレオノーラ・フォン・アルスターの姿を見ただけで、同席していたカトリーナの背筋にわずかに冷たいものが走る。
漆黒のドレスに身を包んだエレオノーラは、整いすぎた美しい顔立ちに一切の笑みを浮かべていなかった。
冷徹なまでのサファイアの瞳が、トランクから取り出されたメープルシロップの小瓶と、美容用品の試作品をゆっくりと値踏みするように見据える。
「……これが、あのリンゴジャムを生み出したムーツ領のイチカさんの、新しい仕掛けですか」
エレオノーラはカトリーナの言葉を待たず、自ら純白の指先ですくい取ったハンドクリームを滑らかに肌へと伸ばした。
先日のリンゴジャムの件ですでにイチカの才覚に注目していた彼女にとって、その名を聞くだけで鋭い探究心が刺激される。
室内が、ぴんと張り詰めた静寂に包まれる。
ほんの数秒後、エレオノーラの瞳孔がわずかに揺らいだ。
乾燥し、北の冷気で荒れがちだった王都貴族たちの肌の悩みを一瞬で忘れさせるような、圧倒的な保湿力と気品ある芳香が、彼女の厳格な理性を心地よく溶かしていく。
「……見事ですね。あの娘の手腕には毎度驚かされますが、まさかこれほどの上質な夜会用クリームまで用意してくるとは」
エレオノーラがふっと氷を溶かすような、しかし気高さのある微笑みを浮かべたその時、応接室の隅で控えていた一人の少女が、そっと身を乗り出した。
アリス・フォン・アルスター、十六歳。
エレオノーラの娘である彼女は、母親譲りの整った容姿を持ちながらも、どこか好奇心を抑えきれない少女らしい輝きをその目に宿していた。
「お母様、それ……すごく良い香りがします。私にも、少しだけ……」
「アリス、お前は下がっていなさい。ここは公的な商談の場です」
エレオノーラが静かに窘めると、アリスはシュンと肩を落として引っ込んだ。だが、その視線は机の上のメープルリップバームから離れていない。
その様子を静かに見据えていたカトリーナは、ここが勝負所だと踏み、美しく微笑みながら一歩前に出た。
「公爵夫人様のお言葉通り、この品を仕掛けたのは我が愛しいビジネスパートナー――イチカという十八歳の若き才女でございます。
彼女はこう申しておりました。これはただの珍品でも、美を競うための道具でもございませんと。過酷な寒さと戦う北の地で、女性の肌と誇りを守るために生み出された、我が領の『誇り』そのものだと」
カトリーナの淀みない言葉に、エレオノーラは深く静かな瞳を細め、やがて優美にうなずいた。
「あの子の非凡な才覚と、それを形にするあなたの商才……どちらも本物ですね。我がアルスター家が、あなたたちの後ろ盾となりましょう」
エレオノーラは立ち上がり、ゆっくりとカトリーナに歩み寄る。
「王都の流行のすべてを、この手でひっくり返して見せなさい。そして――その製作者であるイチカを、今度ここへ連れてきなさい。直接、言葉を交わしてみたいものです」
それは、絶対的な権力者からの揺るぎない合格の宣告だった。
ほっと胸を撫で下ろすカトリーナの傍らで、アリスは「イチカって……私と二つしか違わないのに……」と、キラキラとした憧れの眼差しでカトリーナの持つトランクを見つめ、小さく胸をときめかせるのだった。
北の寒村から持ち込まれた甘い奇跡は、王都の最高権力者を動かし、やがて一人の少女の心をも鮮やかに撃ち抜く準備を整えていく。




