雪解けの森と甘い約束
雪解けの泥濘を蹴散らし、一台の立派な馬車がムーツ領の村へと滑り込んだ。
御者台から飛び降りたカトリーナ・シルヴァは、冷たい北の空気を深く吸い込む。
王都の澱んだ空気とは違う、どこか鋭く、しかし新しい何かが芽吹くような匂いがした。
「おや、カトリーナ様じゃないか!」
声をかけてきたのは、防寒着に身を包んだ村の男たちを束ねる元代官の老人――その傍らで、まだあどけなさを残す十歳の少年、マルクだった。
小柄な体いっぱいに頑丈な測量用の木杭と縄を抱えている。
「マルク、元気だった?」
カトリーナが艶やかに微笑むと、マルクは少し背伸びをして胸を張った。
「もちろんです! オレだって、村の一大事業を手伝ってるんですから!」
マルクが指さした先の広場では、雪解けを待っていた男たちが気合の入った掛け声を上げながら、丸太を組み上げていた。
この冬を乗り切り、いよいよ本格的に生産体制を整えるための「総合加工場」の建設現場だ。
「加工場の建設だけじゃありません。カトリーナ様、こっちに来てください! 今、最高に面白いものが採れているんです!」
マルクに促され、カトリーナが村の裏手にあるカエデの森へ足を踏み入れると、そこにはいくつもの木に竹筒や木樽が打ち付けられていた。
木肌からぽたぽたと滴り落ちているのは、透き通った樹液だ。
「これは……カエデの樹液?」
「ええ。冬の終わりにしか採れない貴重なもんです。これを一晩中、大鍋でじっくり煮詰めると……」
マルクが誇らしげに差し出した木べらをひと舐めした瞬間、カトリーナの美しい双眸が大きく見開かれた。
濃厚で、奥深いコクのある甘みが口いっぱいに広がる。人工の砂糖など足元にも及ばない、
森の生命力が凝縮されたような芳醇なシロップだった。
そのまま小瓶に詰めて高級品として売り出すのはもちろん、これから作るジャムの甘味料としても最高の素材になる。
「素晴らしい……! リンゴジャムの時以上の衝撃だわ。これほどの品、王都の連中が放っておくわけがない!」
カトリーナのなかに、商人の血が猛然と沸き返る。
そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、イチカが軽やかな足取りで工房から現れた。
「カトリーナ様、よくいらしてくださいました。加工場の棟上げと、このメープルシロップだけじゃありませんわ。ここから雪解けを迎える畑では、いよいよ『夏秋イチゴ』の苗床作りも始まるんですから」
イチカの自信に満ちた笑顔と、それを誇らしげに見上げるマルクをはじめとする村人たちの活気。
そして、手元には冬の間に仕込んだ乾物やマロンスイートペースト、さらにこの新しい「メープルシロップ」という強力な武器がある。
カトリーナは藍色の手袋をはめた手を軽く叩き、二人に鋭くも鮮やかな笑みを向けた。
「いいこと? 雪解けはまだ始まったばかりよ。あなたたちが最高の品を育てるなら、私があの王都のすべてをひれ伏させてみせるわ。準備はいいかしら?」
北の辺境の寒村は、春の息吹と共に、かつてない黄金の季節を迎えようとしていた。




