春の訪れと最強の商人
冷たい王都の石畳に、かつての華やかな喧騒はない。
シルヴァ商会の商会長室。カトリーナ・シルヴァは、冷め切った紅茶のカップを見つめながら、静かに息を吐いた。
彼女を蹴落とし、商会の実権を握った者たちの顔が脳裏に浮かぶ。
彼らは目先の利益に目が眩み、流行り廃りの早い王都の表面的なおしゃれを追いかけるばかりだった。上辺だけの真似事は、すぐに飽きられるというのに。
だが、王都の貴族や感度の高い者たちの目は、すでに別の場所を向いていた。
「……始まりは、あの時ひとくち味見させてもらった、鮮烈な苺のジャムでしたわね」
カトリーナは机の引き出しから、小さな木箱を取り出した。
中には、本番の苺ジャムが作れるようになるまでの繋ぎの商材としてイチカが託してくれた、あの思い出の『リンゴジャム』の空き瓶が、今も大切にしまわれている。
まだ本格的な苺の季節でもなく、肝心のジャムさえ満足に作れない最果ての冬の最中、彼女が「まずはこれで資金を稼ぎますわ」と笑って差し出したあのリンゴジャムが、すべての始まりだった。
そこから続いたのは、文字通り手探りからの快進撃だった。
香ばしい乾物の出汁に、舌の上でとろけるマロンスイートペースト。まだ発酵の技術も整わない極寒の地から届くそれらの珍しい商品は、流行に敏感な一部の貴族たちの間で、ひそやかな、しかし確かな注目を集め始めていた。
(美味しいパンを焼くための酵母が安定し、本仕込みの苺ジャムが作れるようになる春の雪解けが来れば、王都の貴族たちの目は完全に北へと釘付けになるでしょう)
(連中は、私を終わった人間だと笑ったわ。けれど……)
カトリーナの唇に、美しく、そして鋭い笑みが浮かぶ。
誰もが見捨てた辺境の地に真っ先に赴き、あの少女の手を取って独占的なパイプを築いたのは、他でもないこの私だ。
王都の古い利権にしがみつく者どもはまだ気づいていない。ムーツ領という土地が、ただの寒村ではなく、この国の経済を根底からひっくり返す最大の「フロンティア」であるということに。
トントン、と扉が叩かれた。
「商会長、北からの商品が到着しました」
信頼できる部下が、興奮を抑えきれない様子で部屋に飛び込んできた。
カトリーナはスと立ち上がり、冷め切った紅茶を飲み干した。
「準備なさい。ここから先は、私があの地との商売を完全に牛耳って見せますわ」
迷いのない足取りで窓辺へと歩み寄り、王都の空を見上げる。空はまだ冬の冷気をたたえているが、風の匂いは確実に春へと変わり始めている。
――待っていて頂戴、イチカ様。
このカトリーナ・シルヴァ、すべての準備を整えました。今度こそ、我が身を賭してあなたの後ろ盾となり、王都のすべてをあの北の大地にひれ伏させてみせましょう。
商会長室の扉が勢いよく開き、カトリーナは王都を後にするための馬車へと向かった。
春の雪解けと共に、最強の商人は再び、北の極寒の地――ムーツ領へと舵を切る。




