白銀の厨房と、清潔の鉄則
凍てつくムーツ領の冬は深く、外の世界がどれだけ白銀に閉ざされていようとも、私たちが暮らす旧領主邸の中では着々と「次の戦い」の準備が進められていた。
もともと我がシモキタール家は、この最果ての地に縁もゆかりもなかった。
広大な権勢と富を誇るレナード公爵家の陰謀によって、何のゆかりもないこのムーツ領へと突如として飛ばされてきた、いわば流れ者の男爵家にすぎない。
おまけにかつての贅沢な屋敷と違って、今の私たちには使用人など一人もいない。当主である父・ルキウスと、もうすぐ8歳になるけれどまだまだ甘えん坊で手がかかるエリス、そして男爵令嬢の私
――この家族だけで、日々の生活を回している。
その日、私は居住まいを正し、だだっ広い厨房の隅に設置された簡易的な水場へと足を向けていた。
冷たい井戸水を桶にくみ上げ、一心不乱に床や調理台を拭き掃除しているのは、他ならぬ私自身だった。
「――お父様、そこ、もう少し念入りに拭いてちょうだい。エリスは冷たいお水に触るとすぐ風邪をひいちゃうから、ストーブのそばにいてね」
私の声に、薪割りを終えて戻ってきた父が汗を拭いながら苦笑交じりに振り返り、その足元ではもうすぐ8歳になるエリスが、小さな木製のモップを遊び道具のように引きずり回しながら「おねえさま、おやつはまだ?」と全く関係のないことを口走っている。
「はっはっは、お嬢様の厳しいチェックはまるで大店の番頭さながらだな。これほど寒いのだから、水仕事はほどほどにしておかないと手が凍えてしまうぞ、イチカ」
「おねえさま、お腹すいたー」
エリスがトコトコと甘えるように近寄ってきたので、私は思わずため息をつきつつも、その頭を優しくぽんぽんと撫でてやった。
「もう、エリスは落ち着きがないんだから。おやつは後です。それよりも、私たちのビジネスを成功させるためには、もっともっと衛生面に気をつけなくてはならないのよ」
私は小さく息をつき、冷徹なまでの事実を告げた。
「甘いことを言わないでちょうだい。あんな傲慢なレナード公爵家に見捨てられ、この見知らぬ最果ての地で特産品を作り、連中の鼻を明かせるようなビジネスを始めるなら、一番最初に妥協してはならないのは『清潔度(きれいに保つこと)』ですの」
もともと後ろ盾も権力もなく、あの強大な公爵家に理不尽に飛ばされたシモキタール家が、王都の市場に食い込むためには、中途半端なやり方では到底太刀打ちできない。
だからこそ、私の記憶の奥底にある知識――近代的な衛生観念や、食品を扱う上での絶対的な鉄則が、最大の武器になる。
人手不足や冬の寒さにかまけて不衛生を放置することこそが、ビジネスにおける最大の致命傷になり得るのだ。
「いいですか? 寒さで水仕事が億劫になる気持ちは分かります。けれど、私たちがこれから出荷しようとしている特産品や加工食品に、もし少しでも雑菌や不衛生な澱があれば、それだけでブランド価値は地に落ちます。雑菌というものは、私たちが想像している以上に『寒さ』の隙を突いて繁殖するものなのですから」
「ざっしゅつ……? いや、雑菌か。確かに、衛生管理の甘さが命取りになるのは商売の基本だな」
「よくわからないけど、バイキンさんはやっつけなきゃダメなんでしょ? エリス、パンチ!」
父が真剣な表情で頷き、エリスはなぜか空に向かって元気よく小さな拳を突き出してみせる。
「そうですわ。目に見えない小さな脅威よ。だからこそ、手洗いの徹底はもちろん、調理器具の熱湯消毒、そしてこの屋内の換気と拭き掃除は、どんなに外が吹雪いていようとも私たち自身の手で絶対に怠ってはなりませんの」
私が手際よく正しい手洗いの手順を示すと、エリスは真似をするどころか、自分の服の裾を引っ張って首をかしげた。
ふと、足元から「キュイッ!」と聞き覚えのある愛らしい鳴き声が響いた。
見ると、いつの間にか冬眠のタイミングを完全に逃したモフモフの子グマ・ルナが、ピカピカに拭き上げられたばかりの床の上でトコトコと歩み寄り、エリスの足元にちょこんと寄り添っている。
「あら、ルナ。あなたも自分で毛づくろいをして体を綺麗に保っているのね。エリスも、ルナの半分くらいは見習って綺麗好きになりなさいよね」
私がクスリと笑うと、エリスは「あ、ルナちゃんだっこ!」と子グマに飛びつき、ルナは「キュキュッ!」と嬉しそうにそのモフモフの体を預けてゴロゴロと喉を鳴らした。
(あんな巨大なレナード公爵家にどんなに理不尽に追放されたって、手のかかる可愛いエリスと、愛しい相棒のルナ、そして家族の笑顔と知恵があれば絶対に負けないわ……!)
自分たちの手でピカピカに磨き上げられた床を見つめながら、私は心の中で鋭く微笑んだ。
使用人に頼るのではなく、家族みんなで協力して徹底的な清潔と衛生管理を貫く私たちを、誰ももう止めることはできない。
シモキタール家の新しい逆襲は、この凍てつく空間で磨かれた小さな厨房から始まっているのだから。




