思わぬ客の影
ノースシーロード王国との歴史的な外交会談を終えたのち、あの「温泉迎賓館」は、現在では極上の癒やしを提供する高級宿泊リゾートとして貴族たちの間で密かな注目を集めていた。
もっとも、あちこちの政治的派閥や思惑が絡み合う貴族社会のことである。
余計な火種や派閥争いを迎賓館の敷居内に持ち込ませないため、一度に受け入れる客は利害関係の対立しない数組の貴族に限定されていた。
さらに、宿泊客が去った後は徹底的な清掃と館内のメンテナンス、そしてスタッフの休養を挟むという、極めて贅沢かつ余裕のある体制で運営されている。
開業当初はイチカ自身が陣頭指揮をとって支配人として切り盛りしていた。
しかし、領地の経営や次なる開発、そして何より自由奔放な美食探求に忙しいイチカが、いつまでも温泉迎賓館に付きっきりでいるわけにはいかない。
そこで現在は、ムーツの元代官であり、豊富な行政経験と抜群の信頼を誇る「シルバー部隊」リーダーのアルフレッドが二代目支配人に就任していた。
普段の運営はアルフレッドが完璧にこなし、王族や大貴族など、一筋縄ではいかない要人が宿泊する時にだけイチカが特別に対応するという形に落ち着いていたのだ。
その日、イチカは男爵邸の一室で、領内の収支や物資の在庫が記された帳簿を真剣な面持ちで確認していた。
「うん……冬に向けた備蓄のバランスはこんなものね」
ペンを置き、やれやれと背伸びをしたその瞬間、慌ただしい足音が廊下から響いてきた。
ノックもそこそこに扉が開き、息を切らせて飛び込んできたのは、アルフレッドの孫であり、子どもたちのまとめ役である少年団リーダーのマルクだった。
「い、イチカ様! 大変です!」
マルクのただならぬ様子に、イチカは眉をひそめる。
「マルク、そんなに慌ててどうしたの? 迎賓館で何かトラブルでもあったのかしら」
「い、いや、トラブルというか……! 今、迎賓館にご宿泊されている貴族様が、どうしてもイチカ様に直接お会いしたいって、急ぎでお呼びなんです!」
貴族からの急な呼び出し。まさか提供した料理や温泉の温度に不手際でもあったのだろうか。
あるいは、先日タキアから持ち帰ったばかりの食材に関するクレームなのだろうか――
脳裏に様々な不安がよぎりつつも、イチカはキリッと表情を引き締めた。
「わかったわ。すぐに迎賓館へ向かうわよ」
何か大きな問題でも起きたのかと、一抹の緊張を抱えながら、イチカは早足で温泉迎賓館へと向かった。
しかし、サロンに通されたイチカを待っていたのは、深刻なクレームなどではなく、全く予想外の人物だった。
そこに優雅に佇んでいたのは、わずか1週間前、イチカが大量の米と食材を買い付けに行ったばかりの――「タキア領の伯爵夫人と令嬢」その人だった。




