冬への備えと黄金色の景色
エオノーラ夫人御一行が、満足げな笑みと和やかな余韻を残してムーツ領を後にした。
その際、恒例となりつつある「アリスによる子グマのルナお持ち帰り未遂の儀式」も滞りなく行われ、北の寒村は再び穏やかな静けさを取り戻したのだった。
そして、その日の午後。
領主執務室には、イチカ、父ルキウス、経理のロベルト、護衛のレイモンドの姿があった。
これから本格的に襲来する過酷な冬に向けた、最重要の作戦会議が始まろうとしていた。
議題の中心となったのは、やはり「領内の備蓄状況」である。
「ロベルトさん、今年の冬支度はどうなっているの?」
イチカの問いに、ロベルトは険しい表情で分厚い台帳を広げた。
「昨年の今頃と比べれば、『 ルナ・ソレイユ 』の売上により状況は改善されております。
しかし……問題は規模です。
今年は新たに北方警備隊が駐留し、兵たちの胃袋も支えなければならない。
これまでの想定以上の物資を確保しておかねば、厳冬期を乗り切ことはできません」
食糧の消費量は、昨年の比ではない。
シモキタール男爵領の自給自足体制をさらに盤石なものにするため、早急な追加調達が不可欠であった。
腕を組んで思案していたイチカは、ふと閃いたように顔を上げた。
「それなら、以前作った『氷室』の稼働実績が大きな武器になりますわ。
今年の夏を越えて、中の氷が完全に溶け切ることもなく、今も冷熱をしっかり保ち続けていることが実証されました。
つまり、冬だけでなく通年で鮮度を落とさずに保存ができるとわかったのです」
「ほう、あの氷室か。確かに、あれほどの規模の天然冷蔵庫が機能しているとなれば、保存食の幅も一気に広がるな」
ルキウスが感心したように頷く。
「ええ。だから、本格的な冬が来る前に、あの氷室の追加を行いたいのです。
そして、それに伴う大量の備蓄食材の調達と――さらなる新しい特産品や食材の買い付けを兼ねて、ブルーフォレスト伯爵領の南にある『タキア伯爵領』へ買い付けの旅に行こうと思います」
イチカの凛とした宣言に、ロベルトが即座に反応した。
「タキア伯爵領ですか。あそこは交易が盛んで、美味しい特産品や野菜が集まると聞いています」
こうして、来るべき冬の防衛と領地発展に向けた新たな遠征計画が満場一致で決定されたのだった。
翌朝。
澄み切った北国の冷気が頬を刺す中、旅装を整えた馬車がムーツの門前に停まっていた。
「みんな準備はいいかしら」
御者台の近くで振り返るイチカに、セレナが凛とした笑みを浮かべて頷く。
「いつでも万全です、イチカ様。道中の安全は、この私とレイモンド様が完璧に守り抜きます」
「ふふ、セレナにそう言っていただけると心強いわ。それでは皆さん、行ってまいります!」
レイモンドが威勢よく手綱を握り、馬車がゆっくりと動き出す。
タキア伯爵領へ向けた買い付けの旅が始まった。
ブルーフォレスト伯爵領の境界を越え、さらに南へと馬車を進めていく。
同じように底冷えのする気候は変わらないものの、季節が進む中で窓の外の景色にふと目を奪われた。
「――あれ……?」
道路脇に広がる、どこか見覚えのある黄金色の絨毯。
すでに稲刈りが終わった後のようで、そこには無数の「切り株」と、しっかりと水管理がされていたであろう土の区画が綺麗に整えられていた。
あれは紛れもなく、日本人が見慣れた「田んぼ」の跡地だった。
驚いた苺香は、思わず御者台のレイモンドに声を張り上げた。
「レイモンドさん、ちょっと馬車を止めて!」
「どうしたんだ、イチカ?」
馬車が緩やかに路肩に停まると、苺香は急いで馬車から降り、その田んぼのあぜ道へと駆け寄った。
落ちている藁や、わずかに残った稲穂の抜け殻を手に取り、まじまじと見つめる。
(嘘でしょう……? この世界のこの北の地に、米があるの……!?)
異世界転生者としてのこれまでの記憶と推理が頭を駆け巡る。
転生当初、苺香はこの世界に米がないと思い込んでいた。
もしあるとしても、ありがちな異世界もののテンプレ通り、「最初は家畜の餌として使われていて、それを転生者が『これは米だ!』と見つけて食材にする」というパターンを期待し、ムーツ領の家畜の餌を徹底的に調べ上げたことがあった。
しかし、そこで見つかったのは見慣れない雑穀や飼料用の麦ばかりで、米の影も形もなかったため、すっかり諦めていたのだ。
それなのに、まさか道の途中で、しっかりと栽培されている跡を見つけるとは。
「イチカ様、どうかされましたか? その草の芯をそんなに真剣に見つめて……」
不思議そうに首をかしげるセレナと、馬車から降りてきたレイモンドが近づいてくる。
「セレナ、ロベルトさん、レイモンドさん……これ、何て呼んでいるか知ってる? この植物の作物よ」
苺香がわずかに興奮を抑えきれない様子で尋ねると、レイモンドは「あぁ、それか」と拍子抜けしたように笑った。
「そいつは『イネ』だ。この辺りじゃあ、一般的な穀物として作られている。主に炊いて粥にしたり、粉にして保存食にしたりしているぞ」
「い、一般的に作られている……ですって……?」
苺香はその言葉に大きく目を見開いた。ムーツの周辺では全く見かけなかったため、この世界全体にないと思い込んでいたが、少し土地の条件が整うだけで、北国であっても普通に主食として根付いていたのだ。
(そうか、ムーツはさらに過酷な土地すぎて育たなかっただけなのね……! いや、待って。ということは……)
頭の中で、かつて日本で親しんだ数々のメニューが鮮烈によみがえる。
白飯、卵かけご飯、おにぎり、そして先日のスープカレーやこれからの料理とも抜群の相性を誇る最高の主食が、この世界のこの道の先に存在しているという事実。
イチカの胸の内で、新たなグルメ開拓の野望と興奮の炎が勢いよく燃え上がった。
「……ふふっ、素晴らしいわ。よし、タキアでの買い付けリストに、決定的な品を追加するわよ!」
予期せぬ「米」との遭遇に心を躍らせながら、イチカは再び馬車に乗り込み、目的地であるタキア伯爵領へとさらに活気よく出発の馬を進めるのだった。




