北の思惑と夫人の算段
夕暮れ時、静まり返った男爵邸の執務室。
暖炉の柔らかな炎が揺らめく部屋の中で、エオノーラ夫人は手元の茶碗に視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「――ルキウス男爵。ノボリベッツ侯爵から届いた正式な招待状についてだけど……、向こうの本当の狙いについては、あなたも分かっているわよね」
対面の椅子に座るルキウスは、引き締まった表情で深くうなずいた。
「はい、公爵夫人。あちらの領主であるノボリベッツ侯爵は、我がムーツ領との定期航路開設に飛びつくほど商機に敏感な男です。それに、あの『ルナ・ソレイユ』をはじめとする一連の製品が、我が領のイチカの手によるものだということもすでに感づいているはず。……おそらく、イチカの価値を十分に理解した上で、自領へと囲い込むためのあらゆる策を講じてくることでしょう」
ルキウスの言葉に、エオノーラ夫人はふっと美しい弧を描いて笑った。だが、その瞳の奥には冷徹なまでの政治的な計算が宿っている。
「ええ、その通りよ。あちらの領地は広大で資源も豊富だけれド、発展性の面では王都や我がアルスター領に一歩譲る。あの子の知識や技術がどれほどの富を生むか、あの老獪な侯爵が逃すはずがないわ。下手をすれば、あの手この手でノースシーロード王国に定住させようと甘い汁を吸わせたり、強硬な手段に出たりする恐れだってあるわね」
「……警戒すべきですね。イチカ自身はまだ自分がどれほど特異な存在か、十分に自覚していないところがありますから」
「だからこそ、私たちが動くのよ」
エオノーラ夫人はカップをソーサーに置き、まっすぐに男爵を見据えた。
「今回のノボリベッツ領への訪問には、私とアルスター公爵、そしてあなたと――エリスの家族全員で同行するわ。公式な訪問という形を取ることで、みすみす向こうの都合のいいようにイチカを扱わせないための『盾』にするの」
「我々家族も全員で……。そこまで大々的に動くのですね」
「当然よ。あれだけの功績を挙げながら、野放しにしておけばどこかの貴族にいいように食い物にされるか、政治的な政略の駒にされかねないわ。今回、次男のレイモンドを護衛として同行させたのも、万が一の物理的な防衛を完璧にするための一環よ」
ルキウスは鋭い眼光を納得の色に変え、小さく息を吐いた。
「なるほど、レイモンド様をあえて直属の護衛に据えたのは、そういった裏の意図もあったわけですか。……となると、レイモンド様自身もただの同行者ではなく、有事の際には公爵家の実力をもってしてもイチカを守り抜くという意思表示ですね」
「ええ。ただ、あの堅物の次男とイチカの間の空気感は、まあ……結果的にいい具合に砕けたようだけれどね。あの子には、政治的な裏の思惑や私たちの過剰なまでの警戒心まで細かく伝える必要はないわ。無用なプレッシャーをかけるだけだもの」
エオノーラ夫人は立ち上がり、窓の外の夜空に目を向けた。
「あなたは父親として、イチカの日常を守りつつ……しっかりと心づもりをしておきなさい。北の冷たい風に足元をすくわれないよう、私たちが完璧な布陣で守り抜くのだから」
「承知いたしました、公爵夫人。イチカを守るため、私も父としてあらゆる事態に備えておきます」
一族の命運と大切な家族を守るため、静かなる防衛網はすでに着々と張り巡らされていた。




