護衛の距離感
ピリッとした緊張感が漂うサロンでの会話が一段落すると、エオノーラ夫人はすっと立ち上がり、やれやれといった風に肩をすくめた。
「さて、せっかくの極上な温泉迎賓館にきたのですからね。長旅の疲れを癒やすとしましょうか。
アリス、行くわよ」
「はい、お母様! お姉様、あとでゆっくりお話ししましょうね!」
そう言って、エオノーラ夫人とアリスはルキウスの案内のもと、さっそく自慢の温泉へと向かっていった。
残されたサロンには、イチカと、アルスター公爵家の次男であり新たな「護衛」となったレイモンドの二人が取り残される。
てっきり夫人たちと一緒に温泉へ行くものだと思っていたイチカは、パチクリと目を瞬かせた。
しかし、レイモンドは腰の剣に手を添えたまま、微動だにせずイチカの数歩後ろにぴたりと控え続けている。
「あの、レイモンド様……? 護衛のお仕事はエオノーラ様たちが王都に帰ってからでもよろしいのではないでしょうか。せっかくの温泉ですし……」
イチカが恐る恐る、高位の貴族に対する丁寧な言葉遣いで声をかけると、レイモンドは涼しげな顔のまま首を横に振った。
「いえ、私がこのムーツ領に来た最大の目的は、今この瞬間からイチカ様をお守りすることですので。任務に私情を挟むつもりはありません」
真面目すぎる返答に、イチカは思わず頭を抱えた。
上位である公爵家の次男に敬語を使われるのは落ち着かない。
「あの、そうではなくてですね……その『イチカ様』とお呼びいただくことも、レイモンド様から敬語を使われることも、なんだかすごく気まずいのですが……!」
するとレイモンドはふっと小さく笑い、意外な提案を口にした。
「それなら、お互い様といこうか。私への敬語はやめて、君も私を『レイモンド』と呼び捨てにするといい」
「えっ、公爵家の次男様を呼び捨てにするなんてとんでもないです! さすがにそれはできませんっ」
慌てて首を横に振るイチカに、レイモンドはふふっと楽しげに笑みを深めた。
「では、こうしよう。私に『レイモンド様』と敬語をやめろと言うなら、君は私を『レイモンドさん』と呼ぶといい。そうすれば、お互いに少しくだけた形ということで不公平にはならないはずだ」
「うぅ……レイモンドさん、ですか……」
サラリと提案され、そこまで言われてしまっては拒否しきれないと感じたイチカは、「分かりました……それでは、これからは『レイモンドさん』と呼ばせていただきますね。
その代わり、私のことは呼び捨てでお願いします」と、条件を突き返すように付け足した。
「ふっ、了解した、イチカ」
「う、なんかペースに巻き込まれてる気がするけど……まあ、いっか」
こうして、若干の気恥ずかしさを覚えつつも、二人の間柄は「さん付け&呼び捨て」という、少しだけ距離の縮まった(しかし主従としては奇妙な)関係に落ち着くのだった。
しばらくして、温泉でさっぱりと汗を流したエオノーラ夫人とアリスがサロンに戻ってきた。
湯上がりでほんのりと頬を紅潮させたエオノーラ夫人は、すっかり打ち解けた(ように見える)イチカとレイモンドのやり取りをしばらく面白そうに眺めてから、ふっと優雅な笑みを浮かべた。
「あら……。すっかりいい距離感になったようじゃないの」
「お母様、二人ともなんだか楽しそうですね!」
アリスがくすくすと笑うのを聞きながら、エオノーラ夫人は満足げに紅茶のカップを手に取り、言った。
「ふふ、いい落とし所ね。これから面倒な旅が待っているのだから、そのくらいの空気感のほうがちょうどいいわ」
一筋縄ではいかないノボリベッツ領への旅立ちに向けて、新しい仲間を加えた一行は、着々と絆(と絶妙な主従の距離感)を深めていくのだった。




