小さな子熊の秘密
ノースシーロード王国の使節団が北の海原へと旅立った翌日。
大役を果たしたジークフリート王弟殿下をはじめとする王国の重鎮たちも、それぞれの領地や王都へと帰途についた。
迎賓館に残されたスタッフたちは、数日間にわたる一大イベントの痕跡を丁寧に片付けていく。
館内の隅々まで点検し、備品が元の位置に戻されたことを確認したところで、ヘッドオブサービスのイチカもようやく一息つき、数日ぶりに自分の居場所である男爵邸へと帰宅した。
その夜――
男爵邸の応接室のソファに、イチカはぐったりと身を沈めていた。緊張の糸がプツリと切れたように、全身の力が抜けていく。
コン、コン。
静かな部屋にノックの音が響き、ドアが開いた。顔を出したのは、今回の会談に伴う厳しい特別警戒体制の無事終了を報告にやってきた、北方警備隊の隊長――ルーカスだった。
彼は制服のまま入ってくると、疲労の色を隠せないイチカを見て、ふっと優しく目を細めた。
「イチカ、本当にお疲れ様。使節団の対応から迎賓館の采配まで、君のおかげで今回の会談は大成功に終わったそうだ。北方警備隊の隊長としても、心から感謝するよ」
「ルーカスさんこそ、警備の指揮でお忙しかったでしょう……お疲れ様です。お茶を淹れますので、どうぞ、そこにかけてください」
イチカは軽く頭を下げると、手際よくティーポットから温かいお茶を二つのカップに注ぎ、ルーカスに差し出した。
ルーカスは「ありがとう」と柔らかな笑みを返し、ソファの端に腰を下ろしてカップに口をつける。
深い安堵の息が、二人の間にふんわりと広がった。
しばらく穏やかな沈黙が流れた後、イチカはふと、ずっと胸の奥に抱いていた疑問を思い出し、足元に視線を落とした。
彼女の足元では、モフモフとした毛並みの小さな子グマ――ルナが、丸くなってすうすうと心地よさそうに眠っている。
もうすぐ、この子を保護してから丸一年が経とうとしていた。
「ねえ、ルーカスさん。ちょっと気になっていたことがあるのですが……」
「ん? なんだ?」
「ルナを保護してから、もうすぐ一年になりますよね。でも、この子、出会った頃とほとんど大きさが変わっていないんです。毛並みはツヤツヤで元気いっぱいなんですけど、姿かたちはすっかりあの頃のままで……。普通の熊って、一年の間にどれくらい成長するものなのですか?」
イチカが小首をかしげながら尋ねると、ルーカスはふむ、と顎に手を当てて考え込んだ。
「そうだな……通常の熊であれば、野生であれ保護された個体であれ、この一年で人間の腕に抱えきれないほど大きく成長するのが普通だ。冬を越えれば、ゆうに二回りも三回りも体が大きくなっているはずだが……」
その言葉を聞いた瞬間、イチカの表情がわずかに曇った。
「やっぱり……おかしいですよね。もしかして、ルナはどこか病気なのでしょうか? 内臓が悪いとか、発育不全とか……」
不安そうに眉をひそめるイチカを見て、ルーカスは慌てて首を横に振った。
「いや、心配しすぎなくていいと思う。あくまで俺の推測だがね……」
ルーカスは床ですやすやと眠る子グマに視線を向け、静かに言葉を続けた。
「ルナは、おそらく普通の熊ではなく、『魔熊』の血を引いているか、あるいはそのものなのだと思う」
「魔熊……?」
「ああ。魔力を帯びた魔獣の類は、一般的な生物とは成長のスピードが大きく異なることが多い。何年もかけてゆっくりと成長するため、まだ子供の姿のままなのだろう。あるいは、この姿の方が君に可愛がってもらえると本能で理解していて、自分の意思で成長をセーブしている……なんて可能性もあるかもしれないがね」
「自分の意思で……?」
ルーカスの冗談めかした、しかしどこか的を射たような推測に、イチカは思わず目をパチクリとさせた。
その気配を察知したのか、足元で丸まっていたルナが「キュル……?」と愛らしい鳴き声をあげて目を覚ました。
そして、眠そうに小さく伸びをすると、ちょこちょことイチカの足元に歩み寄り、そのスリッパに頭をスリスリとすり寄せて甘えてくる。
そのあまりにも愛らしい無邪気な姿を見ているうちに、イチカの不安はすーっと霧のように消えていった。
「……病気じゃないなら、それでいいんです……」
イチカがふわりと微笑みながらルナの頭を優しくなでると、ルナは嬉しそうに「キュッ!」と鳴いて応えた。
その微笑ましい光景を眺めながら、ルーカスは温かい笑みを浮かべ、カップに残ったお茶を飲み干した。
「それじゃあ、俺はそろそろ失礼するよ。今日はゆっくり休んでくれ、イチカ」
「はい、ルーカスさんもお気をつけて。報告ありがとうございました」
ルーカスが静かに部屋を去ると、応接室には再び静けさが戻ってきた。
イチカはソファから屈み込み、まだ子犬のように小さなルナを優しく両手で抱き上げる。
「ルナ、どんなに大きくなっても、ずっとうちの子だからね」
顔を近づけて語りかけるイチカに、ルナはトテトテと鼻先を押し当て、「キュー」と満足げな可愛い鳴き声を返した。
大役を終えた静かな夜、男爵邸の温かな光の中で、二人は穏やかな時間をいつまでも分かち合っていた。




