青の森の別れ
別れの朝を迎えたブルーフォレスト港には、澄んだ潮風が心地よく吹き抜けていた。
ノースシーロード王国へと帰還する使節団を乗せた三マストの大型帆船が、純白の帆を風にはらませて静かに出港の時を待っている。
岸壁の一角には、今回の会談を成功へと導いた王国側の重鎮たちがずらりと顔を揃えていた。
ジークフリート王弟殿下と麗しい妻、アルスター公爵夫婦、ハギムーン侯爵夫婦、そしてこの地を治めるブルーフォレスト伯爵夫婦。
錚々たる顔ぶれが、旅立つ使節団を見送るために見送りの列を作っている。
だが、その華やかな顔ぶれの中に、なぜか一人の姿がなかった。
この使節団を美食と機転で最も深くもてなし、誰もがその名を記憶に刻んだヘッドオブサービスの姿が――どこにも見当たらない。
乗船前の最後の一礼を交わす際、ノボリベッツ侯爵はふと周囲を見渡し、物足りなそうな、しかしどこか名残惜しそうな顔をしてジークフリートに声をかけた。
「……ジークフリート殿下。一つ気になったのだが、今日の見送りに、あのヘッドオブサービスの姿が見当たらないようだが?」
ジークフリートは穏やかな笑みを浮かべ、落ち着いたトーンで答えた。
「ああ、イチカのことか。彼女はあくまで『迎賓館』でのもてなしと統括が仕事であってな。
こうして港まで出張って見送るのが職務というわけではないのだよ。今頃は迎賓館で次の仕事の準備に勤しんでいるはずだ」
それを聞いたノボリベッツ侯爵は、わずかに肩をすくめて大笑いした。
「そうか……。最後まで、あの謎めいた美女をつかまえることはできなかったか。それは実に惜しいことをしたな」
しかし、ノボリベッツ侯爵の表情はすぐに引き締まり、真摯な光を宿した瞳でジークフリートをまっすぐに見据えた。
「だがな、殿下。今回の会談がこれほどまでに完璧な成功を収め、両国が未来の盟約を結べた最大の功労者は、他でもない――あのヘッドオブサービス、イチカ嬢だ。彼女の振る舞い、そしてあの夜のスープカレーをはじめとする細やかな配慮がなければ、我が国とのこの絆はここまで強固にならなかっただろう」
その言葉に、ジークフリートだけでなく、傍らに控えていたアルスター公爵やハギムーン侯爵たちも深く頷いた。
「同感だ、侯爵閣下。彼女の献身と采配は、我が国にとっても誇りだよ」
ジークフリートが誇らしげに微笑みながら同意すると、ノボリベッツ侯爵は満足げに大きく頷いた。
「直接別れを告げられなかったのは心残りだが……殿下、どうか彼女に伝えてくれ。
『今回は一本取られたが、実に素晴らしいもてなしだった。また必ず会おう』とな」
「承知した。本人にも必ず君の言葉を伝えておこう」
ノボリベッツ侯爵は力強く頷くと、見送りの面々に深々と一礼し、屈強な巨体を揺らしながらタラップを登って船上へと上がっていった。
甲板の上に立った侯爵が大きく手を振るのに合わせ、岸壁に立つジークフリートやアルスター公爵たちも笑顔で手を振り返す。
やがて、汽笛が重く響き渡り、三マストの帆船はブルーフォレスト港を離れ、北の海原へとゆっくりと滑り出すように動き出した。
波を分けて遠ざかっていく船を見送りながら、彼らは皆、心の中で確信していた。
この海峡を越えた絆が、これから両国に豊かな実りをもたらすであろうことを――そして、そのすべての裏に、あの優秀なヘッドオブサービスの静かな微笑みがあったことを。




