夜鳴きそばのすれ違い
翌日、温泉迎賓館の大広間において、イースティア王国とノースシーロード王国による正式な通商および友好会議が執り行われた。
前夜の美食と心づくしのもてなしによって両国の心理的距離が縮まっていたこともあり、会議は驚くほどスムーズに、かつ和やかに進行した。
もはやそれは単なる利害の調整ではなく、まるで長年の同盟国同士が未来の安全と繁栄を取り決めるかのような一体感に包まれていた。
安全保障の面では、両国が手を携えて北海峡を荒らす海賊の取り締まりを共同で行うことが即座に合意された。
さらに通商面においては、双方の港を結ぶ定期海上航路の開設が正式に決定し、両国の経済的結びつきは新たなステージへと大きく踏み出すこととなった。
会議は大成功のうちに幕を閉じ、夜の帳が降りる頃には、再び祝宴の雰囲気が迎賓館を包み込んだ。
この日の晩餐会で振る舞われたのは、以前アルスター公爵がこの迎賓館を訪れた際に供され、絶賛を浴びた特製メニューの数々だった。
洗練された味わいはノボリベッツ侯爵をはじめとする使節団の面々を再び唸らせ、美食を通じた外交は大成功を収めたのであった。
盛大な宴が終わり、深夜の静寂が訪れた頃。
昨夜の余韻と、あの「懺悔室」のような個室カウンターの妙な居心地の良さが忘れられず、またしても男が足を運んでいた。
暖簾をくぐり、個室ブースにどっかりと腰を下ろしたのは、ノボリベッツ侯爵である。
昨夜は巧みな受け答えではぐらかされてしまったが、今宵こそはもう少し突っ込んだ話を――と、どこか楽しげな笑みを浮かべながら、小窓の向こうの気配を待った。
やがて、小窓の向こうからヒタヒタと足音が近づいてくる。
ノボリベッツ侯爵はふふっと含み笑いを漏らし、カーテンが揺れるのに合わせて口を開こうとした。
しかし、小窓の向こうから聞こえてきたのは、あの涼やかな女性の声ではなく、低く引き締まった男の声だった。
「お待たせいたしました。当館特製の夜鳴きそばでございます」
差し出された丼の向こうに立っていたのは、ヘッドオブサービスのイチカではなく、料理長のレイブンだった。
ノボリベッツ侯爵は思わずまじまじと小窓の向こうを覗き込み、拍子抜けしたような、しかしどこかおかしそうな声を漏らす。
「おや……? 昨夜はたしか、あの見目麗しいヘッドオブサービスが対応していたはずだが……今宵は君かね?」
レイブンは淡々と、しかし誇らしげに微笑みながら首肯した。
「はい、夜の給仕担当はローテーションとなっておりますので。ですが、この夜鳴きそばの味には絶対の自信を持っております。どうぞ、温かいうちにお召し上がりください」
「……なるほど、そういうことか」
ノボリベッツ侯爵は少しだけ肩をすくめて苦笑した。
だが、目の前に置かれた夜鳴きそばから立ち上る魚介の芳醇な香りを嗅いだ途端、そんな残念な気持ちもどこかへ吹き飛んでしまった。
箸を割り、麺をすすると、昨夜と変わらぬ極上の旨みが深夜の胃袋に染み渡り、思わず「相変わらず美味いな……」と唸声を上げる。
結局、今宵はイチカの姿を見ることはできず、彼女の謎に迫る機会はお預けとなった。
だが、極上の夜食に心を満たされた彼は、満足げにスープを飲み干すと、「ご馳走様」と気さくな声を残して個室を後にするのだった。
静けさを取り戻したカーテンの向こうで、翌日の出発に向けた館内の采配を静かに整えていたイチカは、どこかほっとしたような、そしてくすぐったいような微かな笑みを浮かべるのだった。




