カウンター越しの秘密
盛大な晩餐会が和やかに終わり、夜の帳がすっかり下りた頃。
ムーツ領の温泉迎賓館の一角に、ひっそりと、しかしどこか独特の静けさを纏った一画があった。
その名も「極上夜食カウンター」
温泉を上がった宿泊客の小腹を満たすため、まるで教会の「懺悔室」を思わせる完全な個室ブース形式を取り入れた特設のカウンター席である。
両隣とは厚い木製の壁で完全に遮られ、目の前の小さな小窓にはカーテンが下ろされている。
客はその小窓の向こうの気配を感じながら注文し、差し出された一杯の丼と向き合うという、プライベート感とどこか秘密めいた雰囲気を重視したユニークな造りとなっていた。
深夜の静寂が漂う中、その特等席の一角に、巨体の男がずさりと腰を下ろした。
浴衣姿になったノボリベッツ侯爵その人である。
彼がこの深夜のカウンターへと足を運んだのは、ただ夜鳴きそばをすするためだけではない。
――あの晩餐会ですっかり胃袋を掴まれたスープカレーの余韻があったこともあるが、最大の目的は他にあった。
頭の切れるあのヘッドオブサービス、イチカという謎多き女性と、この密室の空間で二人きりで言葉を交わすこと。それが彼の真の狙いだった。
小窓の向こうから、ヒタヒタと足音が近づいてくる。
カーテンの向こう側に気配を感じると、ノボリベッツ侯爵は低く落ち着いた声で口を開いた。
「おや、こんな深夜に……いらっしゃいませ、侯爵様」
小窓の向こうに立つイチカが、驚きを隠しながらも涼やかな微笑みを浮かべて声をかける。
「ふん、腹が減ってね。眠る前に、どうしても噂の『夜鳴きそば』とやらを試してみたくなってな」
ノボリベッツ侯爵が低く豪快な声で言うと、小窓の向こうでイチカが手際よく湯切りを済ませ、黄金色のスープが張られた極上のラーメンをそっと目の前の小窓へと差し出した。
懺悔室のような閉ざされた空間に、干し貝柱と魚介の芳醇な香りがふわりと立ち込める。
「どうぞ。当館特製の夜鳴きそばでございます」
「ほう……」
ノボリベッツ侯爵はさっそく麺をすする。ツルリとした喉ごしと、深夜の胃袋にしみる優しい旨みが一気に広がり、思わず「くぅ……美味い」と唸声を漏らした。
しかし、彼の鋭い眼光は目の前のカーテンの向こうにいるはずのイチカの気配をじっと捉えて離さない。
数口ほど麺をすすったところで、ノボリベッツ侯爵はふと箸を止め、小窓越しに低いトーンで切り出した。
「なぁ、イチカ嬢。この個室の造りは妙に落ち着く空間だな……。ところで、少し気になっていたんだが、あんた、以前に『ノースシーロード王国』へ行ったことがあるのか?」
密室の空気が、わずかにピリリと引き締まる。カーテンの向こうの苺香は表情を崩さず、静かな声で首を横に振った。
「いいえ、私はノースシーロード王国へ足を運んだことはございません(北海道はありますが……)」
「ふむ……。では、現地に親しい知人でもいるのか? 例えば、トマコーマあたりの料理人や商人と深いつながりがあるとか」
「それもございません。私の知人や故郷の繋がりは、基本的にこちらのイースティア王国領が中心ですので」
ノボリベッツ侯爵はフッと鼻を鳴らし、個室の木製の壁をトントンと指で叩いた。
「ほう……行ったこともなければ、向こうに知り合いもいない、か。だがね、昼間にあんたが作ってみせたあのスープカレー――あれはただの文献や伝聞だけで再現できる代物じゃなかったぞ。あのスパイスの配合、そしてあの『麺を入れる』という我が国の隠れた文化に至るまで、まるで実際にノースシーロードの街を食べ歩いてきた人間のような解像度だった」
まるで懺悔を聞き出す神父のように、追及するような侯爵の視線が小窓を貫く。
だが、苺香は少しも動揺せず、綺麗に整えられた微笑みを崩さないまま、ふわりとかわした。
「お褒めにあずかり光栄です。ただ、私共の仕事は情報を集めることですので。
遠く北の海を渡る貿易船の船乗りたちがこぼした何気ない雑談や、港の荷下ろしをしながら交わされた会話の断片――そうしたものを丹念に拾い集め、分析して料理に落とし込んでいるに過ぎません」
「……ほぉ、情報の拾い集めねぇ……」
「はい。優れた料理は、現地の風土や人々の生活習慣をどれだけ解像度高く想像できるかにかかっていますから」
さらりと流された答えに、ノボリベッツ侯爵は面白そうに片眉を上げる。しかし、彼の探究心はまだ収まらなかった。
「そこまで言うなら聞かせてもらおうか。なら、あんたは我がノースシーロード王国のことについて、他になにを知っている?」
試すような問いかけに対し、苺香は淀みなく答えた。
「――そうですね。私は現地に足を踏み入れたことはございませんが、例えば、専用の鉄板で香ばしく肉と野菜を焼き上げる独特の調理法や、北の荒海で育った甲殻類が持つ濃厚で上品な甘みなどについては、交易商人たちの手記を通じて存じ上げております(北海道で食べたジンギスカンとか毛蟹美味しかったなぁ)」
苺香がふわりと並べてみせた北の食文化の断片に、ノボリベッツ侯爵は思わず目を丸くした。
まるでこの閉ざされた懺悔室の中で、自分の秘密を次々と見透かされているような錯覚にとらわれる。
「……そこまで知っていながら、本当に一度も北の地を踏んだことがないと言うのか?」
「はい。私の足取りはすべてこの王国内にございますので」
二度、ハッキリと「ない」と言い切ったイチカの言葉には、一切の嘘や濁りがない。
ノボリベッツ侯爵はしばらくの間、小窓の向こうの気配を見つめていたが、やがてふっと肩の力を抜き、巨体を個室の背もたれにもたれかけさせた。
「……ははっ、参ったな。この懺悔室みたいな個室で話していると、まるで腹の底をすべて見透かされているような不思議な心地がする。これ以上詮索するのは、野暮というものらしくだな」
侯爵は残りのスープを飲み干すと、空になった丼を小窓のトレイへとスッと戻した。
「ご馳走様。美味かったよ、夜鳴きそばの味も、あんたのその巧みな受け答えもな」
満足げに鼻を鳴らしたノボリベッツ侯爵は、これ以上深く追求することをやめ、豪快に笑いながら極上夜食カウンターの個室を立ち、自分の部屋へと戻っていくのだった。
静けさを取り戻したカーテンの向こうで、苺香は小さく息をつき、ふと遠くを見つめるような静かな笑みを浮かべるのだった。




