極寒の地に漂う芳香と、失意の商会長
ルーカスさんとの『パンの定期取引』という心強い約束を取り付け、私はルナと一緒に足取りも軽く館へと戻った。
雪道を歩きながら、胸の中に確かな手応えが込み上げてくる。
(よし……! これでルーカスさんから薪や肉を継続して仕入れられる。生活の基盤は一歩前進ね)
館の前に辿り着くと、見慣れない立派な馬車が一台、雪に車輪を取られながら停まっていた。
二頭の馬が白い息を吐き、御者席の男が寒そうに身を縮めている。
「あら……? お客様……?」
私が首を傾げたその時、馬車の重厚な扉が開き、薄手の毛皮を羽織った一人の女性が降り立ってきた。
燃えるような赤い髪に、翡翠色の瞳。洗練された立ち振る舞い――王都の商人の装いだが、その表情には隠しきれない疲弊と焦燥が滲んでいた。
彼女――「シルヴァ商会」の会長カトリーナは、馬車から一歩踏み出した瞬間、ピタリと足を止めた。
「……何かしら、この香りは……?」
館の煙突から上る煙とともに周囲に漂う、香ばしく甘い小麦と熟した果実の芳香。
カトリーナは信じられないものを見たかのように目を見開いた。
(小麦の焼きあがる匂い……? こんな不毛の最北端で、王都の高級サロンすら凌駕するような芳醇な香りが……!?)
カトリーナの胸に、激しい衝撃が走る。
父の死後、信頼していた副会長に裏切られ、帳簿を偽造されて商会の主要な権利も資産もすべて奪われた。
王都の商工会からは追放同然に追い出され、手元に残ったのは誰も見向きもしない最北端ムーツ領への細い貿易路だけ。
「あの裏切り者どもの鼻を明かすための『何か』を」と半ばヤケクソで辿り着いたこの絶望の地で、彼女は「あり得ない奇跡」の香りを嗅いだのだ。
目の前に立つ少女――イチカは、質素ながらも手入れされた服を着て、腕には毛並みの良い子グマを抱き、その瞳には自分と同じ「絶対に屈しない力強い意志」が宿っていた。
(見つけた……! 追放されたからと絶望に逃げず、誰も真似できない価値を生み出している……私と同じ、泥を舐めてでも這い上がろうとする目をしている……!)
カトリーナは溢れ出そうになる情熱を抑え、すっと背筋を伸ばすと、優雅にお辞儀をした。
「初めまして、お嬢様。私は王都『シルヴァ商会』の会長、カトリーナ・シルヴァと申します」
「初めまして、カトリーナ様。シモキタール家のイチカと申します」
私が落ち着いてお辞儀を返すと、カトリーナは切実で、けれど熱い光を宿した視線を向けてきた。
「突然の訪問をお許しください。……恥を忍んで申し上げますが、私は王都で身内に裏切られ、すべてを失ってこの最北端へ落ち延びてきた身なのです」
自らの凄惨な失脚を隠さず明かしたカトリーナは、館の煙突を見上げて言葉を続けた。
「ですが、この不毛の地で、私の鼻を刺激してやまない『恐ろしく魅力的な香り』に出会いました。
……追放されたあなた様がここで何を起こしているのか、ぜひお話を伺いたいのです。
私に、一発逆転の取引の機会をいただけませんか?」
裏切られ、追放され、それでも諦めない女商人。
前世で数々の崖っぷち案件を泥臭く解決してきたPRプランナーとしての私の血が、激しく騒ぐのを感じた。
「ええ、喜んで。……ちょうど、焼き立ての温かいパンと温かいお茶がございますわ。どうぞ中へ」
王都を追われた二人の女性。
互いの反撃(PR)と未来を賭けた、最初のビジネス交渉の幕が上がろうとしていた。




