もう一人のトレーニング
約5分で読める短編ホラーです。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
筋トレを始めたのは、夏だった。
鏡に映った自分の細い身体が嫌になり、毎晩、寝る前に腕立て伏せをすることにした。
最初は十回。
それが二十回、三十回と増えていった。
不思議なことに、筋肉は驚くほど早くついた。
一週間で胸板が厚くなり、腕も目に見えて太くなった。
「俺、才能あるかもな」
そう笑いながら、鏡の前でポーズを取った。
そのとき、少しだけ違和感があった。
鏡の中の俺が、ほんの一瞬遅れて動いた気がした。
気のせいだと思った。
だが、その日からだった。
筋トレをしていると、誰かの声が聞こえるようになった。
「もっと」
最初は小さな声だった。
「もっとやれ」
翌日には、はっきり聞こえた。
怖くなったが、トレーニングをやめることはできなかった。
身体が勝手に動くのだ。
腕立て伏せを五十回。
腹筋を百回。
スクワットを百回。
限界になっても、身体だけは止まらない。
「もっと……」
声は楽しそうだった。
そして、一か月が経った。
俺の身体は別人のようになっていた。
筋肉が異常なほど発達している。
けれど、鏡を見るたびに妙なことに気づく。
筋肉が増えるたび、俺の顔が少しずつ変わっている。
頬が痩せ、目が窪み、口元が妙に歪んでいた。
ある夜、限界を感じてトレーニングをやめた。
床に倒れ込む。
「もう……無理だ」
すると、鏡の中の俺が立ち上がった。
俺は床に倒れたままだ。
鏡の中だけ、勝手に腕立て伏せを始めている。
一回。
二回。
三回。
鏡の中の俺は、こちらを見ながら笑っていた。
「やっと交代だ」
背筋が凍った。
「何を……」
「今まで鍛えてくれて、ありがとう」
鏡の中の俺が、ゆっくりこちらへ手を伸ばした。
ガラスなのに、その指がこちら側へ突き出てくる。
逃げようとした。
だが、身体が動かない。
鏡の中から伸びた手が、俺の胸を掴んだ。
次の瞬間――
身体の内側から、何かが引き抜かれる感覚がした。
「これで、俺の身体が完成する」
目の前が暗くなった。
翌朝。
俺は鏡の前に立っていた。
身体は見違えるほど鍛え上げられている。
腹筋は割れ、腕は太く、完璧な肉体だった。
俺は満足して笑った。
……いや。
笑ったのは、俺ではなかった。
鏡の中の俺は、まだ床に倒れている。
そして必死にガラスを叩いていた。
「出してくれ!」
その声を聞きながら、俺はジムへ向かった。
今日は新しいメニューを試す。
もっと身体を鍛えるために。
鏡の中の「俺」を、完全に消すために。
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