第9話 謝罪ではなく、対価を
来客があると告げられた時、誰が来たのかを、アンネリーゼはすぐに悟った。応接室に入ると、ヒルデガルトとヴァルターが並んで立っている。二人とも、旅装のまま急いで来たらしい身なりだった。人目を気にする余裕さえなかったのだろう、いつもなら決して崩さない装いの端々に、乱れが見て取れる。商会の廊下を歩く間、すれ違う使用人たちが不思議そうな視線を向けていたことにも、二人は気づいていない様子だった。
「アンネリーゼ」
ヒルデガルトが、真っ先に口を開く。声には、これまで聞いたことのない硬さがあった。着飾ることに人一倍気を配ってきた人が、装いの乱れにも構わず訪ねてくる。それだけで、事の深刻さが伝わってくる。応接室の椅子を勧めても、二人とも座ろうとしなかった。
「戻ってきてほしいの。屋敷のことも、取引先のことも、あなたがいなくなってから、何もかもがうまくいかなくて」
言葉を重ねるほどに、ヒルデガルトの声は上ずっていく。用意してきたはずの台詞が、思うように出てこない様子だった。隣に立つヴァルターは、ただ黙って俯いている。二人でここまで来たはずなのに、主に語っているのは妻の方だった。それすらも、いつもと変わらない光景だと、どこか冷めた目で見ている自分がいる。
「お話は伺っております。ご不便をおかけしているようで」
淡々と応じると、ヒルデガルトの目に、みるみる涙が浮かぶ。人前で涙を見せることを何より嫌う人だと、この三年で嫌というほど知っていた。それが今、体裁を取り繕う余裕もなく、目の前で崩れている。
思えば、この人が本当に恐れていたのは、屋敷が回らなくなることそのものではないのかもしれない。社交界で「非の打ちどころのない女主人」であり続けることこそが、この人の拠り所だった。その像が音を立てて崩れていく怖さが、今、涙という形で溢れているのだろう。三年間、感謝の言葉さえ数えるほどしかかけられたことがなかったのに、涙だけは、こんなにも素直に流せるものかと、どこか他人事のように思った。
「悪かったと思っているの。だから、戻ってきてくれない?」
震える声だった。この人が声を震わせるところを見るのは、初めてかもしれない。
長年の癖で、卓上の茶器に手が伸びかけた。泣いている相手に温かい茶を出す。三年間、数えきれないほど繰り返してきた仕草だった。指先が触れる直前で、手を止める。今の自分は、もう侍女ではない。
それでも、心を動かされることはなかった。
「奥様のお気持ちは、分かりました」
感情を否定するつもりはない。ただ、それをそのまま受け取るつもりも、なかった。
「なら」
「戻る、戻らないの前に。三年分の給金の差額は、いつお支払いいただけますか」
淡々とした問いだった。感傷に応えるつもりはないという意思を、これ以上ないほど明確に示す言葉でもある。他家の侍女長の相場との差額を、実は密かに計算してあった。数字は、頭の中にいつでも取り出せる形でしまってある。恨みを晴らすためではない。ただ、うやむやにされてきたものを、うやむやにしたまま終わらせたくなかった。それだけのことだった。
ヒルデガルトの表情が、凍りつく。ヴァルターも、答えに詰まった様子で目を伏せた。感情に対して感情で応じてもらえると思っていたところに、数字を突きつけられたのだから、無理もない。
「そ、それは、追って計算して」
「では、その計算が終わりましたら、改めてお話を伺います。今日のところは、それ以上のお答えは持ち合わせておりません」
にべもない返事だったが、声を荒らげたわけではない。淡々と、当然の手続きを述べただけだった。顧問という立場を盾にしているだけだと、見る人が見れば分かるだろう。それでも構わなかった。今この場で必要なのは、心を通わせることではなく、線を引くことである。線を引くことすら、以前の自分にはできなかった。
「すまなかった」
ヴァルターが、初めて口を開いた。短い一言である。それ以上、言葉を継ぐことができないでいるのが、傍目にも分かった。何を言えば正しいのか、本人にも見当がついていないのだろう。三年間、一度も向き合ってこなかった相手に、今さら気の利いた言葉が出てくるはずもない。それでも、頭を下げにここまで足を運んできたことだけは、事実として受け止めた。アンネリーゼは、深く一礼しただけで、何も返さない。許すとも、許さないとも言わない沈黙が、答えの代わりだった。
二人は、それ以上何も言えないまま、応接室を辞していく。玄関先まで見送ることも、アンネリーゼはしなかった。かつて、屋敷の玄関で幾度も見送りに立った日々を思い出しはしたが、その役目はもう自分のものではない。
扉が閉まった後、しばらく一人で立ち尽くした。込み上げてくるものが何なのか、自分でもよく分からない。怒りでも、寂しさでもない、もっと乾いた感覚である。三年分の言葉を、ようやく受け取ったはずなのに、満たされた気持ちにはならなかった。むしろ、これで本当に終わったのだという実感だけが、静かに胸の底に残る。
「大丈夫か」
エーミールが、静かに隣に立つ。心配げに顔を覗き込むでもなく、ただ、そこにいるというだけの立ち方だった。何かを聞き出そうとする素振りもない。ただ、話したくなったら話せばいい、というだけの気配が伝わってくる。
「大丈夫です。少し、驚いただけで」
実際のところ、驚いた以上の何かがあった。それが何なのか、うまく言葉にできないだけだった。
「無理に話す必要はない。ただ、聞くくらいはできる」
静かな声だった。急かす響きも、探るような響きもない。それが、かえって言葉を引き出した。その一言が、思いのほか深いところに届いた。誰かに聞いてもらうことを、これまで期待したことすらなかった。その言葉に、これまで誰にも話したことのない話が、するりと口をついて出る。
「父は、私が十七の時に病で亡くなりました。母はその前年に。爵位だけが残った家に、私一人が取り残されました。頼れる親類もなく、行儀見習いという名目で、あちこちの屋敷を転々として、最後にグライフ家に落ち着いたのです」
父の書斎にあった帳簿を、幼い頃から手伝わされていたこと。それが、後になって唯一の武器になったこと。屋敷を転々とする間、名前も出自も伏せて、ただ手の早い使用人として振る舞ってきたこと。話し始めると、堰を切ったように、これまで誰にも語らずにきた細部が、次々と言葉になった。誰かに聞かせるために整えた話ではない。順序も、時折前後する。それでも、止めることができなかった。
「同情されるのが、何より嫌でした。だから、誰にも話さずにきたのです」
言ってから、少し驚いた。今この瞬間、自分がそれを話している相手に対しては、なぜかその嫌悪が働かなかったからだ。理由を探る余裕はまだなかったが、そのことにだけは、はっきりと気づいていた。
淡々と、事実だけを並べる語り方である。同情を誘うつもりも、憐れみを求めるつもりもなかった。ただ、知っておいてほしいと、そう思っただけである。
エーミールは、黙って聞いていた。相槌を挟むこともなく、急かすこともなく、ただ最後まで聞く姿勢を崩さない。話し終えた後も、何かを論評することも、慰めの言葉を探すこともなかった。ただ、隣に座ったまま、静かに時間が過ぎるのに任せている。それだけで、十分だった。
鞄ひとつで出た日のことを、彼女は初めて誰かに最後まで話した。




