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「代わりはいくらでもいる」と言われた侍女は、その夜のうちに屋敷を出ました  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第8話 三年間、黙っていました

書斎に通された客は、繊維問屋の主人だった。長年の取引先で、これまで挨拶以上の会話を交わした記憶もほとんどない。取引の窓口はいつも番頭同士で済んでおり、当主同士が顔を合わせる機会自体、めったになかった。


今日に限って、わざわざ本人が訪ねてきたことに、ヴァルターは少し面食らっていた。応接用の茶を勧めても、主人は椅子に浅く腰掛けたまま、なかなか手をつけようとしない。用件を早く済ませたいという構えが、ありありと伝わってくる。


「単刀直入に伺いますが、当家との取引を、このまま続けてよろしいものかどうか」


単刀直入だった。前置きもなく切り出された問いに、ヴァルターは面食らった。取引先からこうした聞き方をされるのは、初めてのことである。


「それは、どういう」


「先月分の支払いが、二週間遅れました。今月分も、まだ届いておりません。加えて、夜会の案内の格式に不備があったという話も、方々で耳にしております。信用に関わる話ですので、直接お伺いした次第です」


淡々とした口調だったが、言葉の端々に、これ以上取引を続ける値打ちがあるかを見極めに来た、という気配が滲んでいた。長年の付き合いを盾に取ることもできたはずだが、あえてそうしないのは、それだけ状況を重く見ている証だろう。商売人としての礼儀と、譲れない一線とを、きっちり分けて示しているのが分かった。


ヴァルターは、すぐには言葉が出てこなかった。支払いが遅れているという事実そのものを、初めて聞く。慌てて執事のヨーゼフを呼び、確認させると、答えはすぐに返ってきた。


「支払いの為替手続きは、以前は毎月十日までに済ませておりました。担当が代わってから、期日が守られないことが続いております」


淡々とした報告だったが、事の重さは十分に伝わってきた。担当が代わってから、という一言が、やけに耳に残る。


「なぜ、早く言わなかった」


「新しい担当の方に、都度お伝えはしております。手続きの仕方が、まだ身についていない様子で」


問屋の主人が帰った後、ヴァルターは帳簿を持ってこさせ、自分の目で確かめることにする。目を通すのは、実に久しぶりのことだった。数字を並べてみると、思っていた以上に支出が膨らんでいる。予定になかった弁償の支払いや、割高な緊急発注が、あちこちに紛れ込んでいた。一つひとつは大きな額ではないが、積み重なれば無視できない規模になっている。誰がこれを許可したのかと問えば、誰かが判断せざるを得なかったからだ、という答えしか返ってこないだろうことは、聞く前から分かっていた。ページをめくる手が、次第に重くなる。目にする数字のどれもが、これまで誰かの目に触れることなく、そのまま帳簿に沈んでいたものだった。読み進めるほど、屋敷の内側で何が起きていたのかが、少しずつ形を持ち始める。


「ヨーゼフ、これは一体、どういうことだ」


「発注や支払いの判断を、以前のように的確に行える者が、今はおりません」


言葉を選びながらも、はっきりとした物言いだった。ヨーゼフがこうして踏み込んだ発言をするのは、珍しい。三十年の付き合いの中でも、数えるほどしかなかった。


「以前のように、とは」


沈黙。ヨーゼフは、少しの間、口をつぐんだ。三十年仕えてきた男が、こうして言葉を選ぶ様子を見せるのは、珍しいことである。何かを話すべきかどうか、その一線で迷っているのが、傍目にも分かった。ヴァルターは、急かすことなく、次の言葉を待った。


「アンネリーゼ様が担っておられた仕事の範囲を、旦那様は正確にご存じでしょうか」


不意に核心を突かれ、ヴァルターは口ごもった。名前だけは知っている。だが、その名前が具体的に何を意味していたのかと問われれば、答えに窮する。侍女の一人、という以上の認識を、これまで持ったことがなかった。


「妻に任せていたはずだ。細かいことは、私の領分ではない」


そう答えながらも、自分の言葉に、どこか据わりの悪さを感じていた。任せていた、という言い方は、本当に正しいのだろうか。任せた覚えのある指示など、一度も出したことがない気がする。


「奥様が任せていらしたのは、アンネリーゼ様でございます。三年間、家政の一切、招待客への応対、取引先との折衝、使用人の差配、そのすべてを、あの方お一人が担っておられました。私どもが日々何事もなく過ごせていたのは、あの方が裏で細部まで整えていらしたからでございます」


ヨーゼフの声は、いつもと変わらず淡々としていたが、言葉の一つひとつが、これまで聞いたことのない重みを持って響いた。使用人の中でも、こうした形で自分の意見を述べることは、まずない男だった。長年黙って見てきたことを、初めて言葉にする決心をしたのだろう。それがどれほどの覚悟だったのか、今のヴァルターにはまだ量りかねた。


「そんな話は、聞いたことがない」


「旦那様がお尋ねになるのは、これが初めてでございます」


その一言に、ヴァルターは返す言葉を失った。三十年、この屋敷に仕えてきた執事が、今日まで一度も口にしなかった話だった。尋ねられなかったから、答えられなかっただけのことだ。責めるつもりのない、ただ事実を述べるだけの声だった。それがかえって、こたえた。怒られる方が、まだ楽だったかもしれない。詰問するような声で聞かれていたなら、言い訳の一つも浮かんだだろう。だが、淡々と告げられた事実の前では、返す言葉すら思いつかなかった。


しばらくの沈黙の後、ヴァルターの口から出たのは、我ながら情けない一言だった。


「それだけの人材なら、給金を積んで詫びを入れれば、戻ってくるだろう」


ヨーゼフは、わずかに間を置いてから答える。


「それで戻られるとお思いでしたら、旦那様はまだ何も分かっておられません」


普段の慎み深さからは考えられないほど、率直な物言いだった。金の話ではないのだと、ようやく伝わってくる。三年間、給金以外のもので支えられてきたのだとすれば、給金だけで取り戻せるはずもなかった。


「では、お前はずっと、知っていたのか」


「存じておりました。差し出がましいことと思い、申し上げずにおりました」


その返事には、悪びれた様子も、恩着せがましさもなかった。ただ、長年の立場が許す範囲を、律儀に守り続けてきただけの声である。


長年の勤めの中で、幾度となく胸に留めてきたのだろう言葉だった。それを今、初めて外へ出した。


いつも通りにお願いね、と妻が口にするのを、何度耳にしてきたことか。あの一言の裏に、これほどのものが積み重なっていたとは、考えたこともなかった。妻自身、その中身を把握していたわけではないのだろう。誰かに任せておけば回る、というだけの認識で、三年をやり過ごしてきたに過ぎない。もっとも、それを笑う資格が自分にあるとは思えなかった。妻のことを笑えるほど、自分は屋敷の中身を知っていたわけではない。むしろ、妻よりもさらに、知らずに済ませてきた期間が長い。


「他には、何か言うべきことはあるか」


ヨーゼフは、しばらく黙って立っていた。それから、静かに首を振った。三十年の間、幾度となく見てきたであろう主人の顔を、今また静かに見つめている。何かを見定めるような、それでいて何も語らない目だった。


「今、申し上げられることは、以上でございます」


それ以上は聞かない。聞いたところで、今さら取り戻せるものではないことだけは、ヴァルターにもようやく分かり始めていた。取り戻すという言葉すら、この場合は正しくないのかもしれない。最初から自分の手の中になかったものを、失ったと言うことはできない。


三十年仕えた執事の言葉を、伯爵はその日初めて最後まで聞いた。

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