第7話 自分で選んだ持ち場
顧問として最初に任されたのは、三年越しにもつれた案件である。北方の織物商との取引が、毎年この時期になると必ず揉める。価格の食い違いだと聞かされていたが、実際に帳面を洗ってみれば、原因は別のところにあった。
番頭たちも、これまで幾度となく先方と掛け合ってきたはずだが、そのたびに場当たりの妥協で収めてきたらしく、根本の原因までは誰も遡っていない。そうした案件を、まず最初に彼女へ回した。試すつもりがなかったと言えば嘘になるが、任せてすぐに片付くとは、正直なところエーミール自身も思っていなかった。
「これは、為替の計算基準がずれています。先方は旧基準のまま、うちは新基準で換算していますから、毎回同じ額だけ食い違う」
アンネリーゼが差し出した紙には、三年分の取引記録と、ずれの発生時点が一目で分かるよう整理されている。細かい字がびっしりと並んでいるが、要点を追うだけなら一目で足りる作りだった。誰かに見せることを前提にした資料の組み方である。ぱらぱらとめくってみたエーミール自身には、正直なところ数字の羅列にしか見えなかったが、それを一晩で読み解いたのだと思うと、素直に舌を巻いた。担当の番頭が、驚いた顔で紙を覗き込む。
「そんな単純なことだったのか。うちの誰も、そこまで遡って見た者はいなかった」
「揉めるたびに、その場しのぎで値引きや割増しをして帳尻を合わせていたようですね。根本の基準を揃えれば、次からは起きないはずです」
その日のうちに、先方との話し合いの場を設けた。エーミールも同席したが、口を挟む場面はほとんどない。アンネリーゼは淡々と資料を示し、双方の勘定方式のずれを説明し、今後の基準を一本化する案を提示する。先方の担当者は、最初こそ渋い顔をしていたが、数字で示されては反論のしようもなかったらしい。しばらく唸った末に、案をそのまま受け入れた。
商談が終わり、先方が帰った後の応接間で、番頭の一人が感心したように呟く。
「三年、埒が明かなかった話が、たった一度の席で片付くとは」
そう言って、首を振った。長年この商会に仕えてきた男の口から出た言葉だけに、重みがある。エーミールも同じ思いだった。数字の読み方だけでなく、相手がどこで折れるかを見極める勘所まで、危なげなく押さえている。教わって身につく類のものではなく、場数を踏んだ人間だけが持つ勘である。侍女という肩書きの裏に、これほどのものを隠していた家の側の鈍さを思うと、いっそ呆れる気持ちにさえなった。もっとも、鈍かったのは向こうの都合であり、こちらにとっては拾い物だったとも言える。
商会に戻ってから、エーミールは番頭たちを集めた場で、あえて声に出して言った。
「三年越しの案件を、一日で片付けた。これが、うちの新しい顧問の仕事だ」
大げさに褒めるつもりはなかったが、これくらいは言っておく必要があると思う。誰の手柄かを、うやむやにする商会にはしたくない。長年勤めている番頭たちの中には、余所者を顧問に据えたことを快く思っていない者もいるはずだった。だからこそ、成果は成果として、初めからはっきり示しておく必要がある。アンネリーゼは静かに一礼しただけで、表情は変わらなかった。
だが、その後の彼女の様子は、どこか硬い。書類を扱う手つきに、いつもとは違う張り詰めた気配がある。気になって、人のいなくなった廊下で声をかけた。
「何か、気に障ることでも」
「いえ。ただ、人前で名指しされることに、慣れておりません」
言葉を選びながらの返事だった。それだけで、察しはついた。侍女として働いていた頃、目立つことは歓迎されなかったのだろう。それどころか、目立てば目立つほど、都合よく利用されるだけだったのかもしれない。今日の一件も、同じ構図に見えたとしても不思議はなかった。
「俺は、君の成果を守るつもりで名前を出した。だが、君に確認しなかった。そこは俺の落ち度だ」
率直に認めた。取り繕う理由がない。アンネリーゼは、少し驚いたような顔をしてから、小さく首を振った。
「そこまで仰っていただく話では。ただ、次からは、一言いただけると助かります」
「分かった」
短いやり取りだったが、それで十分だった。その場を離れる彼女の足取りは、先ほどまでより幾分か軽く見えた。
夕刻、二人で明日の予定を確認していた折、彼女の手元の書き付けに目が留まり、尋ねる。
「その几帳面な字は、どなたに教わったものですか」
尋ねてから、すぐに失言だったと気づいた。彼女の経歴に踏み込むような問いである。日々の仕事ぶりを見ていれば、誰しも一度は抱く疑問だろうが、口に出していい問いとそうでない問いの境目を、自分は踏み越えたらしい。案の定、アンネリーゼの表情がわずかに強張った。手元のペンを置く動きが、一瞬だけ止まる。取り消すこともできず、かといって続ける言葉も浮かばなかった。
「立ち入りすぎたなら、謝ります。ただ、知っておいてほしかった」
沈黙が落ちる。何を、とは続けなかった。何を知っておいてほしいのか、自分でもうまく言葉にできないまま、口が先に動いていたらしい。アンネリーゼが問い返す前に、エーミールは自分から言葉を継いだ。
「俺も、元は行商人だ。荷を担いで各地を回っていた頃は、貴族の屋敷の門前で、取り次ぎすらしてもらえないことが何度もあった。名刺一枚渡すにも、裏に一言添えなければ、まともに読んでもらえない。あの癖は、その頃からのものだ」
自分の過去を、誰かに語ったことはこれまでほとんどない。取引先には成り上がりだと陰口を叩かれ、同業者には運が良かっただけだと言われ続けてきた。そのどちらにも、いちいち取り合う気力はもう残っていない。それでも、目の前の相手には、隠しておく理由が見当たらなかった。
「最初の数年は、字一つ、礼一つで、相手にされるかどうかが決まった。だから、細かいところで手を抜かない癖がついた。人に軽んじられないための、ただの用心だ」
苦い記憶を並べているつもりはなかったが、話しながら、当時の感覚が幾つか蘇る。荷を下ろす場所さえ与えられず、裏口で長々と待たされたこと。ようやく通した取引を、後になって別の商人に横から奪われたこと。数え上げれば切りがない。今さら誰かに同情してほしいわけでもなかった。
「今の肩書きも、財産も、後から手に入れたものだ。中身が変わったわけじゃない。だから、身分の話は、しない」
アンネリーゼは何も言わなかった。ただ、じっとこちらを見ている。憐れむでも、驚くでもない、静かな目だった。しばらくして、ようやく口を開く。
「私も、似たようなものです。名を伏せて働いていた間の方が、よほど自分らしくいられました」
それ以上は語らない。語らないことで何かを守っているのだと、その一言だけで伝わってきた。深追いする気にはなれず、エーミールも黙って頷くにとどめる。二人の間に流れる沈黙は、気まずいものではなかった。窓の外では、商会の使用人たちが片付けの物音を立てている。日常の音が戻ってくるまで、二人ともしばらく動かなかった。そんな時間を、誰かと共有したのはいつ以来だったか、すぐには思い出せない。
そこへ、番頭の一人が顔を出し、耳打ちする。
「旦那様、グライフ伯爵家の噂、うちの取引先の間でも出るようになってきました。夜会の作法がどうも怪しいとか。それに、支払いの為替が届くのも、以前より遅れがちだと」
エーミールは短く頷いただけで、それ以上は触れなかった。今この場で、その話をするつもりはない。ただ、頭の隅では、あの屋敷が今どういう有様になっているのか、おおよその見当がついていた。噂の出所が一つでないところを見ると、根は思いのほか深い。いずれ、この顧問の耳にも入るだろう。その時、何を思うのかまでは、今は分からなかった。
彼が初めて語った過去に、彼女は相槌を返さず、ただ次の書類を差し出した。




