第6話 対価という言葉
商業ギルドの会合で、その噂を耳にしたのは、たまたまだった。月に一度の定例会で、議題そのものはいつも通り退屈なものだったが、終わった後の雑談には、思わぬ情報が紛れ込む。今夜もそうだった。
「グライフ伯爵家の夜会、近ごろ様子がおかしいらしいな。案内状の格式がまるで揃っていないとか」
「侍女が代替わりしたそうだ。前の侍女は評判が良かったが」
「うちにも、招待の文が急に素っ気なくなったと、家内が申しておりました」
同席していた商人たちが、酒の肴代わりにそんな話をしている。周りの何人かが、面白がって相槌を打った。他人の家の内情など、この手の集まりでは格好の話の種になる。悪気があるわけではないのだろうが、聞いていて心地の良いものではない。エーミールは、手元の帳面から顔を上げずに、その話を聞いていた。前の侍女、という言葉に、思い当たる顔が一つあった。取引の数字を、こちらの手控えより正確に言い当ててみせた女だった。あの日、名刺の裏に走り書きしたまま、まだ渡していない一文がある。あの一文を、どんな顔で渡せばいいのか、まだ決めかねてもいた。声をかける機を見計らっているうちに、思いのほか時間が経っていた。
商売の場では、事情を見極めてから動くのが常だった。相手が本当に困っているのか、単に一時の意地を張っているだけなのか。見誤れば、こちらの申し出そのものが失礼になる。だが、噂が広まっているということは、彼女がすでに屋敷を離れたということでもある。行き先も定まっていないなら、迷っている暇はなかった。恩を売るつもりも、拾い上げてやるつもりもない。ただ、あれほどの腕を持つ人間を、このまま埋もれさせておくのは、商人として単純に惜しいと思っただけだった。
翌日、部下に言いつけて、彼女の行方を探らせた。難しい仕事ではない。街の小さな商店を回れば、帳簿仕事を頼める腕の立つ女がいる、という話はすぐに拾えた。今は下町の宿で間借りをしながら、近所の店の帳面を請け負って糊口をしのいでいるという。生活に困っているというより、次にどこへ落ち着くかを、静かに見定めている様子だと、部下は言った。報告を聞きながら、エーミールは一つだけ確信した。困って泣きついてくる相手ではない。だからこそ、こちらから条件を整えて出向く必要があった。
訪ねていくと、狭い部屋の卓上には、数軒分の帳面が積まれていた。字は乱れておらず、几帳面な筆致は記憶にあるものと変わらない。壁際には行李が一つ、荷解きも半分ほどしかされていない様子だった。腰を落ち着ける場所を、まだ決めかねているように見える。
「ヴァーグナー様。このような場所まで、わざわざ」
驚いた様子は見せなかったが、警戒の色は隠しきれていない。招き入れる素振りも見せず、戸口に立ったまま先の言葉を待っている。無理もないと、エーミールは思った。素性の知れない申し出を、易々と受け入れるような性分ではないことは、あの商談の場で十分に見て取れていた。前置きを省き、用件だけを告げる。
「うちの商会で、帳簿を見てほしい仕事がある。正式な顧問として迎えたい」
アンネリーゼは、しばらく黙っていた。それから、丁寧に断りの言葉を口にした。
「もったいないお話ですが、私はつい先日まで、ただの侍女でございました。商会の顧問というお役目には、身分も経験も釣り合いません」
「経験は、この間のやり取りで十分に見た。身分の話は、していない」
身分にこだわって人を測るくらいなら、最初から商売になど手を出していない。エーミール自身、行商の荷を担いで各地を回っていた頃は、貴族の使用人にすら鼻であしらわれたことが幾度もあった。今の肩書きがあるから相手にされているだけで、中身が変わったわけではない。そのことを、誰よりも自分がよく分かっていた。だからこそ、目の前の相手の腕を、身分書きで判断するつもりはなかった。
「お気遣いはありがたく存じますが、同情でいただくお仕事では、長くは続かないかと」
その言葉に、エーミールは初めて眉を寄せる。同情、という単語が、彼女の口から出たことが意外だった。困窮を憐れんで差し出された施しだと、思われているらしい。これまで積み上げてきたものが、正当に評価されたことが一度もなかったのだろうと、その一言だけで察しがついた。安く使われることには慣れていても、正当に払われることには慣れていない。そういう人間を、これまでにも何人か見てきた。
「同情なら、金は払わない。せいぜい、紹介状の一枚も書いて終わりだ」
持参した書類を、卓の上に広げる。役職、担当業務、そして給金の欄。数字は、彼女がこれまで得ていた侍女としての給金の、優に三倍を超えていた。安く見積もったつもりはない。むしろ、同業の顧問と比べても、遜色のない額を出したつもりだった。それでも不服だと言うなら、こちらの見立てが甘いということになる。そのくらいの覚悟で、数字は決めてきた。
「あなたに払うのは同情ではなく、仕事への対価です」
穏やかだが、はぐらかしを許さない声だった。アンネリーゼは、書類の数字を見つめたまま、しばらく動かない。
「先日の商談で、あなたが正しかった。今日、この帳面を見ても、腕は落ちていない。それだけの話です」
「私のような身の上の者に、これほどの条件を」
「身の上ではなく、腕を買っている。それでは不服ですか」
「不服などと、そのような」
「なら、迷う理由もないはずだ」
畳みかけるつもりはなかったが、遠回しに言っても、彼女はかえって身構えるだけだろうと踏んでいた。実務の話は、実務の言葉でするに限る。それが、これまでの商売で学んだ数少ない教訓の一つだった。
不服だと言えるはずもなかった。アンネリーゼは目を伏せ、それから、静かに顔を上げる。その表情には、これまでの警戒とは違う、何かを見定めるような色があった。
「謹んで、お受けいたします」
短い返事だったが、迷いは残っていないように聞こえた。エーミールは頷き、契約書の余白に、日付だけを書き加える。
「勤務は来週から。住まいは商会が用意する。何か不都合があれば、遠慮なく言ってくれ」
「そこまでしていただく理由が、私には」
「理由なら、さっき話した通りだ。それとも、まだ何か不安が」
アンネリーゼは小さく首を振った。それ以上、遠慮の言葉を重ねるのは、かえって相手の判断を疑うことになると、察したようだった。窓の外は、もう夕暮れに近い。狭い部屋に差し込む光が、卓上の帳面の山を橙色に染めていた。
用件はそれで終わりだった。恩着せがましい台詞も、憐れみを匂わせる言葉も、意図して口にしなかった。彼女が求めているのは、そうしたものではないと分かっていたからだ。部屋を出る間際、卓の隅に置かれた古い羽根ペンの替え穂先が目に入ったが、それについては何も尋ねなかった。
差し出された契約書には、給金の欄が一度も空白になっていなかった。




