第5話 引き継げなかったもの
侍女長という肩書きを与えられて、まだ十日ほどしか経っていない。ミーナは自分の机に積まれた帳面の束を見て、それでも案外なんとかなるものだと思っていた。前任者が残したメモには、取引先の名前と、いつ何を頼んだかが、几帳面な字でびっしり書き込まれている。読み込めば、同じように振る舞えるはずだった。
年上の使用人たちからは物覚えが早いと言われて育ったし、遠縁とはいえ伯爵家に呼ばれたのも、期待されてのことだと思っていた。何より、これまでの仕事は誰かの指示を受けてこなすだけのものだったが、今度は自分で判断し、自分で回していく仕事である。そのことに、内心では少し誇らしさすら覚えていた。
最初につまずいたのは、酒精商のグルーバーが訪ねてきた朝だった。長年出入りしている取引先だと、名簿には書いてある。それ以上の情報は、特に必要ないだろうと思っていた。
「いつもの分を頼む。それと、今月は例のやつも一緒に」
「例のやつ、と言いますと」
グルーバーは怪訝な顔をした。
「毎年この時期に融通してもらっている、あれだよ。去年もアンネリーゼ嬢に頼んだはずだが」
メモのどこを探しても、そうした特別な取り決めは載っていない。ミーナが要領を得ない返事を繰り返すうちに、グルーバーの表情はみるみる険しくなった。
「まさか、この程度の話も引き継がれていないのか。長年の付き合いだというのに」
グルーバーの声は、屋敷の廊下にまで響くほどだった。通りかかった別の使用人が、何事かとこちらを覗き込んでくる。ミーナは頭を下げるしかなかった。
結局、グルーバーは不機嫌なまま帰っていった。次はいつ来てくれるとも言い残さずに。前の人は、こんな細かいことまで全部頭に入れていたのだろうか。メモに書ける範囲のことなど、きっとほんの一部でしかなかったのだと、ミーナは少しずつ思い知らされていく。それでも、一度の失敗くらいでは、まだ自分を疑う気にはなれなかった。慣れれば、そのうち分かるようになるはずだと、自分に言い聞かせた。
同じ週のうちに、今度は仕立て屋の使いが困った顔で訪ねてくる。
「今月分の代金なのですが、いつも通り、四半期ごとのまとめ払いでよろしいでしょうか。それとも」
「はい、いつも通りで結構です」
適当に答えたつもりはなかったが、後になって、その仕立て屋だけは毎月払いに切り替えていたはずだと、古株の使用人から指摘された。なぜ切り替えたのかは、誰も詳しい事情を知らない。アンネリーゼが、何か個別の事情を汲んで決めたことなのだろうと、皆が口を揃えるばかりだった。
一つ一つは、取り返しのつかないほどの大失敗ではない。それでも、小さな見落としが積み重なるたびに、自分の判断そのものへの信頼が、少しずつ削られていくのが分かった。前任者のメモは、答えを教えてくれる代わりに、問いの多さばかりを突きつけてくる。開けば開くほど、自分がまだ何も知らないことを思い知らされる、そんな種類の書き物だった。
その日の午後、招待客への案内状の返信を任された。来月の夜会に来られるかどうかを尋ねる、簡単な文面のはずである。相手の名前と敬称を差し替えるだけで、あとは同じ文章を使い回せばいいと考え、公爵夫人にも、男爵夫人にも、まったく同じ丁寧さの手紙を送った。効率よく片付いたと、我ながら満足していたくらいである。招待客の名簿には、爵位こそ記されていたが、それぞれにどう書き分けるべきかまでは、どこにも記されていなかった。
数日後、その返信が社交界で静かに噂になっていると知らされたのは、ヒルデガルトからだった。呼び出された時点で、何か良くないことが起きたのだと、ミーナにも察しがつく。応接間に向かう廊下が、いつもより長く感じられた。
「ねえ、公爵夫人への文面が、他の方と同じ丁寧さだったと聞いたのだけれど」
「え、いけなかったんですか。どちらにも失礼のないよう、丁寧に書いたつもりだったんですが」
「相手によって、言葉遣いの格を変えないと。かえって軽んじているように受け取られてしまうの」
「申し訳ございません。次からは、どのように書き分ければよろしいでしょうか」
「それは、その、雰囲気で分かるものだと思っていたのだけれど」
ヒルデガルトも、はっきりとした基準までは説明できないようだった。長年、誰かが自分の代わりに整えてくれていたことを、いざ言葉にしようとすると、うまく形にならない。そのことに、当人も戸惑っている様子だった。
そんな決まりがあるとは、メモのどこにも書かれていなかった。アンネリーゼは、送る相手ごとに、いちいち文面を変えていたということになる。案内状一枚にどれほどの手間をかけていたのか、ミーナには想像もつかなかった。誰に聞けば分かるのかも、今となっては分からない。
「前の人は、これを全部覚えていたんですか」
つい口をついて出た問いに、ヒルデガルトは困ったように微笑むだけで、はっきりとは答えなかった。答えられなかったのだと、後になって気づく。
台所の女中たちも、ここ数日でミーナへの態度を変えていた。発注の指示を出しても、確認もなく従ってくれることが減っている。一度、量を間違えて余分に届いた野菜を前に、古株の女中がため息交じりに言った。
「ミーナさん、前の指示と違っていましたよ。もう一度、ちゃんと確かめてから言ってもらえますか」
「す、すみません。今度から気をつけます」
謝りはしたが、次に何を確かめればいいのかさえ、はっきりとは分からなかった。ここ数日、指示を出すたびに聞き返されることが増え、以前のように素直に動いてもらえない場面が目立つ。悪気があってのことではないと分かっていても、確認の一言一言が、自分への不信のように感じられた。かつては、先輩に何か聞かれれば、すぐに答えを返せることが自慢だった。今は、答えられない場面ばかりが続いている。
取引先の間でも、屋敷の様子がどうもおかしいという話が、静かに広まりつつあるらしい。この間の茶会に呼ばれた商人の一人が、そんな噂を聞いたと世間話のついでに漏らしたと、後から人づてに耳にした。何がどうおかしいのか、具体的なことまでは分からない。それでも、屋敷の外にまで話が伝わっているという事実だけで、胃の底が冷たくなる思いがした。自分一人の失敗のつもりでいたことが、屋敷全体の評判に関わる話へと広がっている。どこまでが自分の落ち度で、どこからがそうでないのかも、もう判断がつかなかった。せめて古株の使用人たちだけでも味方につけたいと思っていたが、今日の様子を見る限り、それも難しそうだった。
夜、自室に戻ってからも、今日一日の出来事が頭から離れなかった。前の人は、これほど多くのことを、一体どうやって間違えずにこなしていたのだろう。答えはどこにもなかった。
ただ、一つだけ分かったことがある。自分が無能だから、というだけの話ではないのかもしれない。三年かけて積み上げられたものを、たった十日で同じように担えというのが、そもそも無理な注文だった。それを誰も、最初からきちんと説明してはくれなかった。
分かったところで、今日の失敗が消えるわけではないが、自分を責める分の重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。壁に立てかけたままの帳面の束を、今夜はもう開く気になれない。
誰も彼女の指示に、もう一度は従わなかった。




