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「代わりはいくらでもいる」と言われた侍女は、その夜のうちに屋敷を出ました  作者: 九葉(くずは)


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第4話 いつも通りが分からない

朝の光は、いつもと変わらず明るかった。ヒルデガルトは寝台の中で伸びをし、今日も良い一日になりそうだと、そんなことを考えていた。窓の外では鳥が鳴き、庭園の薔薇も、そろそろ見頃を迎える時期である。


来月の夜会に着ていくドレスの色を、そろそろ仕立て屋に伝えなければ、などと考えながら身支度を整えた。誰かがカーテンを開け、誰かが湯を運び、誰かが朝食の支度を整える。それらすべてが、当たり前のように毎朝繰り返されてきた。誰の手によるものかを、深く考えたことはない。


朝食の席で、給仕をしているのがミーナだと気づいて、ヒルデガルトは少し首を傾げた。


「あら、今日はあなたなのね。いつもの子は?」


「あの、旦那様がおっしゃるには、辞めたとかで」


答えたのは、ミーナではなく給仕頭の年配の使用人だった。ヒルデガルトは、パンにバターを塗る手を止める。辞めた、という言葉の意味を、しばらく飲み込めなかった。


「辞めたって、誰が」


「アンネリーゼでございます」


ああ、そういえば、そんな話をヴァルターがしていたような気もする。給金がどうとか、そんなことだったはずだ。深刻な顔をするほどの話ではないと、ヴァルターも言っていた気がする。ヒルデガルトは頷いて、パンを口に運んだ。それきり、その話題のことは頭から離れていった。誰か一人、屋敷を辞めたところで、大きく変わることなど何もないはずだった。人手が足りなければ、また誰かを雇えばいい。それだけのことだと思っていた。


朝食を終え、庭で薔薇を眺めながら、来月の夜会の招待客について、ぼんやりと思いを巡らせる時間は、いつも通り穏やかだった。誰を招くか、席をどう配置するか、そうした華やかな部分を考えるのは、ヒルデガルトにとって何よりの楽しみである。異変が訪れたのは、昼過ぎのことである。


家政の間から、聞き慣れない声が漏れ聞こえてきた。ヒルデガルトが顔を出すと、長年出入りしている御用聞きの商人が、困り顔で立っている。


「奥様、いつもの月の分の発注なのですが、量も品も、どなたにお伺いすればよろしいでしょうか」


「いつも通りにお願いね」


いつも言っている言葉を、いつものように口にした。それで十分だと思っていた。ところが、商人はますます困った顔になる。


「その、いつも通りというのが、私どもにも分かりかねまして。先月は蜂蜜を三樽、蝋燭は特別に上等な品を五十本、といった細かい指定を、いつもアンネリーゼ様からいただいておりましたので。季節や在庫によって、毎回少しずつ数が違っておりましたし、支払いの日取りも、そのつど文書でいただいておりました」


商人の言葉に、ヒルデガルトは曖昧に頷くしかなかった。蜂蜜が三樽なのか二樽なのか、蝋燭が上等な品でなければならない理由が何なのか、そのどれもが、初めて聞く話のように新鮮に響いた。三年もの間、毎月同じことが繰り返されてきたはずなのに、内容を尋ねられて初めて、自分がその中身を何一つ知らないことに気づかされる。考えてみれば、屋敷に届く請求書の類に、自分が目を通したことも一度もなかった。すべて、確認したうえで支払いに回してくれていたのだろうと、漠然と思っていただけである。


その名前を聞いて、ヒルデガルトは初めて、事態の意味に気づき始めた。品物の量も、質も、いつ何をどれだけ頼むかも、自分は一度も具体的に決めたことがない。決めていたのは、いつも彼女だった。


「それなら、ミーナに聞いてちょうだい。この子が、今度から色々やってくれることになっているの」


呼ばれたミーナは、慌てて帳面らしきものを抱えて駆けつけたが、開いたページをめくる指が、明らかに落ち着きを欠いていた。


「前の方が使っていた帳面、どこにあるんでしょう」


「その帳面が、それではないの?」


「これには、いつ何を頼んだかは書いてあるんですけど、なぜそれだけの量なのかが、どこにも」


ミーナはページを何度もめくり返したが、数字の羅列以上のものは読み取れないようだった。無理もない、とヒルデガルトも思う。教わってもいないことを、初日から一人でこなせというのが、そもそも無茶な話だった。


ヒルデガルトも、机の引き出しをいくつか開けてみたが、見覚えのある紙束は見当たらない。どこに何をしまってあるのかさえ、把握していなかった自分に、今さらながら気がついた。


「少し待って。ヴァルター、あなたなら分かるかしら」


たまたま通りかかったヴァルターに声をかけてみたが、返ってきたのは怪訝そうな顔だけだった。


「そんな細かいことを、私が知るわけがないだろう」


その通りである。知っているのは、いつも彼女一人だった。ミーナは半泣きの顔で、蜂蜜と蝋燭の量を適当に見繕おうとしたが、去年の記録と見比べても、季節ごとに数字が違う理由までは読み取れない。ヒルデガルトも、口を挟もうにも、何が正しい数字なのかまるで見当がつかなかった。商人は、控えの間で気長に待つと言って、ひとまず席を外した。


入れ替わるように、今度は洗濯場の女中が慌てた様子で駆け込んでくる。


「奥様、シーツの糊付けの業者さんが、支払いが滞っているとおっしゃって、今日の分の納品を渋っておられます」


「支払いが滞っているって、そんなはずは」


「アンネリーゼ様が、毎月きっちり為替をお送りになっていたそうなんですが、今月はまだどなたからも」


立て続けに聞かされる話に、ヒルデガルトはめまいに似たものを覚えた。発注、支払い、納品。日々当たり前に回っていた歯車の一つ一つに、すべて同じ名前が刻まれている。屋敷を切り盛りするというのは、こんなにも細かなことの積み重ねだったのかと、今さらのように思い知らされる。


「アンネリーゼなら、すぐ分かったのに」


口をついて出た一言だった。誰に向けたわけでもない、ただの独り言だったが、口にしてから、その響きの重さに、自分自身が一番驚いていた。すぐ分かった、というのは、つまり、これまでずっと、彼女一人が分かっていたということだ。


「奥様、いかがいたしましょう」


ミーナの問いに、ヒルデガルトはすぐには答えられなかった。今月は少し多めに、と曖昧に告げるのが精一杯である。それがどれほど的外れな指示なのかも、今の自分には判断のしようがなかった。


夕方、玄関先まで様子を見に出ると、御用聞きの荷馬車が、まだ庭先に停まったままだった。結局、何を運び込むかを決めきれず、御者は困り果てた顔で手綱を握っている。空を見上げると、日はもうずいぶん傾いていた。屋敷の中では、来月の夜会の準備が、いつも通り進んでいるものとばかり思っている。


それが、いつも通りではなかったのだと、ヒルデガルトはまだ半分も理解していなかった。ただ、これまで当たり前だと思っていたことの多くが、実は当たり前ではなかったらしいという予感だけが、胸の奥に薄く残った。明日もまた、同じような一日になるのだろうかと、そんなことを考えながら、部屋の中へ戻る。


御用聞きの荷馬車は、注文書を空白のまま帰っていった。

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