第10話 クロイツの名で
商会の朝礼で、新しい帳簿顧問の就任が正式に発表された。並んだ番頭たちの前で、エーミールは短く経歴を紹介しただけだったが、拍手はいつまでも鳴りやまなかった。かつてこの場で余所者として扱われることを覚悟していたが、実際には杞憂に終わった。
三年越しの案件を一日で片付けた話は、すでに商会中に知れ渡っている。誰も、彼女の実力に異を唱える者はいない。侍女という肩書きも、没落した家の出自も、この場では誰一人口にしなかった。求められているのは、ただ帳面を読む腕だけだった。半年前まで、自分がこうして人前に立つ日が来るとは、想像すらしていない。
その日の午後、取引先回りから戻った番頭の一人が、世間話のついでに小さな噂を届けてくれた。応接間の隅で帳簿を整理していたアンネリーゼの耳にも、自然と届く距離である。
「そういえば、グライフ伯爵家の侍女、また辞めたそうですよ。三人目とか」
番頭は、特に他意もなさそうに、そう続けた。世間話のつもりで口にした一言が、これほどの重みを持つとは、本人も思っていないだろう。
「三人目、ですか」
グライフ邸の茶会で、初めてヴァーグナーという名を耳にした日のことが、頭をよぎる。半年ほど前の、遠い記憶のようにも感じられる出来事だった。
あの時は、誰かの噂話の一部でしかなかった名前が、今では自分の新しい居場所そのものになっている。人生というのは、思いのほか、何気ない一言から動き出すものらしい。
「最初の子は半月、二人目は一月と持たなかったとか。よほど、前の侍女さんが優秀だったんでしょうな。今の侍女長さんは、もう匙を投げて、伯爵家自ら人選をやり直しているという話です」
番頭は、他人事の世間話のつもりで喋っている。誰が「前の侍女」だったのかを、この場の誰も知らない。名乗るつもりもなかった。
アンネリーゼは、静かに頷いただけだった。誰も自分の代わりにはなれなかったという事実を、他人の口から聞かされる日が来るとは、思ってもいなかった。哀れむ気持ちも、勝ち誇る気持ちも、不思議なほど湧いてこない。ただ、あの夜の一言が、結局のところ何一つ正しくなかったのだと、静かに確認できただけだった。三人の後任がそれぞれ何を思って辞めていったのかまでは、知る由もない。
それでも、誰にも埋められなかった穴の深さだけは、今の話ではっきりと分かった。
夕刻、エーミールが応接室に呼んだ。卓の上には、正式な契約書が広げられている。役職、業務範囲、給金。すでに一度確かめた条件だったが、今日は、その脇にもう一つ、見慣れない品が置かれていた。窓の外の光が、まだ十分に明るい時刻である。
「餞別、というほどのものでもないが」
エーミールにしては、珍しく前置きめいた一言だった。差し出されたのは、一本の万年筆だった。柄には、控えめな彫りが施されている。手に取ってみると、ずしりとした重みが伝わってきた。安物ではないことは、持っただけで分かる。
「替え穂先を、いつまでも気にしなくていい。もう、その心配はさせない」
机の引き出しの奥に、いつも予備の穂先を忍ばせていたことを、いつ見抜かれていたのだろう。誰にも見せたことのない癖のはずだった。指摘されて初めて、自分でも気づかなかった程度の、小さな習慣だったと分かる。見られていないつもりで、実はずっと見られていた。悪い気はしない。
「署名は、どちらの名で」
エーミールが、契約書の署名欄を指し示した。事務的な問いのようでいて、その実、選ぶ余地を渡す言葉だった。答えを急かす様子はない。以前、身分を明かした時と同じ、彼女自身に決めさせる態度だった。あの時と同じように、今日も自分の口から答えを出すことを、求められている。
アンネリーゼは、懐から小さな布包みを取り出した。開くと、銀の文鎮が現れる。表面には、もう誰も名乗る者のいない紋章。父の書斎から持ち出して以来、誰にも見せたことのない品だった。侍女として働いていた三年間も、商会に来てからのこの数ヶ月も、机の奥にしまい込んだまま、一度も外の光に当てたことはなかった。手のひらの上で、文鎮の重みを確かめる。冷たい銀の感触が、不思議と落ち着きをくれた。それを、そっと契約書の上に置く。
「アンネリーゼ・クロイツとして、この契約をお受けします」
はっきりとした声だった。声は、震えなかった。長く伏せてきた名を、こうして自分の意思で口にする日が来るとは、屋敷を出たあの夜には、まだ思い描けていない。侍女として仕えていた頃、この名を口にすることは、同情か軽蔑のどちらかを招くだけだと思っていた。今、この名を告げても、目の前の相手は表情ひとつ変えなかった。ただ、契約の相手として、当然のように受け止めている。それだけのことが、これほど胸に響くとは、自分でも予想していなかった。誰かに認められるために、名乗ったわけではない。それでも、認められた事実は、確かにここにあった。
エーミールは、契約書に自分の名を書き加えてから、静かに告げた。万年筆ではなく、使い慣れた自分のペンを使っている。
「代わりを探す気は、端からありません」
短い一言だったが、これまでの半年に交わした言葉のどれよりも、まっすぐに届いた。かつて、誰かが軽々しく口にした同じ言葉が、今はまるで違う響きを持って、自分の前に置かれている。あの夜、屋敷の玄関で聞いた言葉と、今耳にした言葉。同じ並びの文字が、これほどまでに違う意味を持つことに、静かな驚きを覚えた。言葉そのものに罪はなかったのだと、今なら分かる。それを、どう使うかを決めるのは、いつだって口にする人間の側だった。
「来年の商業ギルド晩餐会には、婚約者として同席してほしい」
不意打ちのような申し出だった。エーミールの表情には、いつもの実務的な平静さの奥に、わずかな緊張が見え隠れしている。契約の話をする時とは、明らかに違う声だった。手元の書類を扱う時の落ち着きが、今は少しだけ揺らいでいる。
「即答は求めない。ただ、考えておいてほしい」
急かさない、というのは、この人らしいやり方だった。仕事の契約であれば、条件を並べて即断を求めるところを、こればかりは違う扱いをしている。それが、かえって答えを重くも、軽くもした。もっとも、この人が急いだところを、これまで一度も見たことがない。
アンネリーゼは、契約書の上の文鎮に、そっと指先を触れた。答えは、もう決まっているようなものだったが、今すぐに言葉にする必要もないと思った。急がなくても、この人は待ってくれる。そう思えることそのものが、これまで手にしたことのない安心だった。窓の外は、もう夕暮れに近い。契約書の余白に落ちる光が、文鎮の縁を淡く照らしていた。三年間、誰にも見せなかった紋章が、今は隠すことなく、卓の上にある。新しい万年筆と、古い文鎮が、同じ卓の上に並んでいた。
契約書に記した名前は、もう誰にも軽んじさせないと決めた名前だった。




