第2話 数字だけが知っている
朝から、屋敷の空気がいつもと違っていた。取引先のヴァーグナー男爵が正午前に訪ねてくるという知らせが届いたのは、昨晩のことである。ヴァルターは朝から書斎に籠もり、分厚い帳簿を前に唸っていた。窓の外では庭師が朝露の残る芝を刈っており、屋敷全体が、いつもより少しだけ張り詰めた空気に包まれていた。
「先方が、去年の毛織物の取引について、何か確認したいことがあるらしい。細かい数字までは、私にはよく分からんが」
そう言って、書類の束をアンネリーゼに押しつけたのはヴァルター自身だった。何を確認すればいいのかも、はっきりとは告げない。ただ、粗相のないようにとだけ念を押された。取引先を迎える時はいつもこうだった。段取りも、資料の用意も、すべて丸ごと渡され、当日はヴァルターが話しやすいように整えるだけが仕事になる。前日までに交わされた書簡の写しを読み返し、話が及びそうな数字をあらかじめ拾い出しておくのも、毎回のことだった。今回は、羊毛の相場の変動と、隣国の関税が上がったという噂を、独自に控えておいた。伯爵家の書斎に届く商業誌に目を通す時間を、惜しんだことは一度もない。
昼近く、案内された客間に現れたのは、聞いていた以上に若い男だった。仕立ての良い上着を纏っているが、貴族らしい気取りはどこにもない。名刺を差し出す所作にも、部屋を一瞥する視線にも、商人らしい早さで場を測る気配があった。控えていたアンネリーゼの姿にも、一度だけ目を留めたが、それ以上のことはなかった。
「ヴァーグナーと申します。急な訪問で申し訳ない」
これまで屋敷に出入りしてきた取引先の多くは、儀礼的な世間話に長い時間をかけたがった。天候の話、社交界の噂、互いの家族の近況。エーミールは違った。挨拶を終えると、無駄のない動きで椅子に腰を下ろし、すぐに書類を広げる。急いでいるというより、余計なやり取りに時間を割く習慣がないだけのように見えた。
ヴァルターが応対し、世間話もそこそこに本題へ入る。毛織物の取引の件、代金の支払期日、先方が指摘する数字のずれ。ヴァルターは手元の書類をめくりながら、記憶を頼りに数字を挙げていく。
「たしか、荷が届いたのは十月の半ばだったはずです。代金もその時に」
エーミールの眉が、わずかに動いた。
「私どもの記録では、十一月の頭になっておりますが」
「そんなはずは。いや、もしかしたら十月の末だったか」
ヴァルターの答えが揺れる。座が、一瞬静まった。ヴァルターの視線が泳ぎ、手元の書類をめくる指の動きが速くなる。急ぐほどに、目当ての紙は見つからないものだった。茶を運ぶ盆を持って部屋の隅に控えていたアンネリーゼは、その様子を見て、静かに口を開いた。
「恐れながら、旦那様。十月の分は、羊毛の見本のみの到着でございます。本発注の荷が届きましたのは、十一月三日でございました。台帳の三十二ページに記載がございます」
数字を諳んじることに、迷いはなかった。教え込まれたやり方は、体に染みついている。誰に教わったものかを、この場で語るつもりはなかった。
一同の視線が、アンネリーゼへ向く。ヴァルターは慌てて帳簿をめくり、指摘された箇所を探し当てた。数字は、彼女の言った通りだった。
「では、代金の支払期日も一月ずれるということになりますが」
エーミールがそう確認すると、ヴァルターは曖昧に頷いた。実際にいつ支払いが行われたかまでは、すぐには思い出せない様子である。
「支払いは十一月二十日に、為替にて。遅延はございません」
これも、アンネリーゼが答えた。エーミールは自分の手控えを取り出し、静かに照らし合わせている。
「見本の到着と、本発注の到着を、分けて記録されているということですか」
「はい。見本は仕入れの検討段階のもの、本発注は支払いが発生する取引として、別に記帳しております。同じ日に届いたように扱ってしまいますと、代金の計算にも狂いが出ますので」
エーミールは、しばらく黙ってアンネリーゼを見ていた。値踏みするような目ではない。何かを確かめるような、静かな観察だった。
「今の指摘は、侍女の仕事の範囲ではないと思いますが」
穏やかな声だったが、はぐらかしを許さない響きがあった。アンネリーゼは目を伏せ、短く答える。
「差し出がましいことを申しました。失礼いたしました」
「いや」
エーミールはそれだけ言うと、手元の書類に視線を戻した。それ以上は問い詰めもせず、話を本題に戻す。アンネリーゼはすでに一礼して、下がるところだった。
そこへ、ヒルデガルトが茶菓子を追加させに顔を出した。話の流れを聞きつけ、朗らかに割って入る。
「あら、うちの侍女がお役に立ったようで。良い人材を置いているのが、うちの自慢ですの」
エーミールは軽く頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。
商談が一段落した頃合いを見て、ヒルデガルトがもう一つの用件を持ち出した。
「そういえば、遠縁の娘がおりまして。行儀見習いに、どうかと思っておりますの」
そう言って手招きすると、廊下で控えていた若い娘が一礼して現れた。ミーナという名だという。人懐こい笑みを浮かべ、意欲だけはありそうな様子だった。エーミールに向けても、物怖じせず愛想よく頭を下げている。
「よろしくお願いいたします」
ミーナは興味津々といった様子で、あたりを見回した。
「わたし、お屋敷のお仕事、頑張ります。難しいことはまだよく分かりませんけど」
屈託のない言い方だった。ヒルデガルトは満足げに微笑んだが、アンネリーゼには、その一言をそのまま聞き流すことしかできなかった。難しいことの中身が何かを、この場で説明している暇はない。
ヒルデガルトはアンネリーゼに向き直った。
「少しの間、仕事を教えてあげてちょうだい。人手は多いに越したことはないもの」
「かしこまりました」
短い返事の裏で、アンネリーゼは頭の中に、教えるべき手順の一覧を並べ始めていた。招待客の好み、取引先ごとの慣習、月々の支払いの流れ、御用聞きへの発注の順番。三年かけて自分の頭にだけ蓄えてきたものを、どこまで人に渡せるものか、まだ見当がつかない。書き出せば済むような単純なことばかりではない。
商談を終え、エーミールが辞去する段になった。玄関先まで見送りに出たヴァルターとヒルデガルトの後ろに、アンネリーゼも控えた。交わされる挨拶は短く、事務的なものだった。ヴァルターは終始、いつもより幾分か声が高い。取引を大きく崩さずに済んだ安堵が、態度ににじんでいた。
馬車に乗り込む前、エーミールは一度だけ振り返り、控えていたアンネリーゼへ小さく頭を下げた。使用人に対する礼にしては、丁寧すぎる仕草だった。誰も、それを気に留める様子はない。御者が馬を促し、車輪が石畳を鳴らし始める。屋敷の中へ戻る前、アンネリーゼは自分の手元に、今日の取引の要点をまだ覚えていることに気づいた。頼まれてもいないのに、頭が勝手に記録している。
玄関先で、彼は名刺の裏に何かを書き足してから去っていった。




