第1話 拍手は、いつも誰か別の人に
客間に並べた椅子は、十八脚。招待客の人数より二脚多い。
今朝、菓子の並びを決める段になって、招待客の一人が乳製品を受け付けない体質だということを思い出した。台所へ走り、代わりの焼き菓子を用意させたのはアンネリーゼだ。半年前に届いた返事の端に添えられていた、たった一行の断り書き。それを覚えていたのは、屋敷中で彼女だけだった。花屋からの荷が届かなかった時も、庭師を呼びに走ったのは彼女で、卓上に飾られた早咲きの枝は注文した品とは別物である。夜明け前の下働きたちの支度から立ち会い、最後の客が椅子を立つまで、机の前に座る暇はなかった。
三月の陽が差し込む午後、グライフ伯爵邸の客間は、茶器の触れ合う音と控えめな笑い声で満ちていた。半年前からヒルデガルトが温めていた、新しい東方の茶葉の披露会である。茶葉の仕入れ先を探し、価格を交渉し、湯の温度を給仕係の一人一人に指示して回ったのもアンネリーゼだったが、この場でその名を知る者はいない。
「今日のお茶は格別ですこと。ヒルデガルト様の目利きには、いつも感心させられますわ」
招待客の一人がそう言うと、ヒルデガルトは頬に手を当てて控えめに微笑んだ。
「少し、こだわりましたの。良いものを選ぶ目には、自信がありますから」
その言葉に嘘はない。ヒルデガルトは、差し出されたものの良し悪しを判断する目は持っている。ただ、それを選んだのが誰かということまでは、視界に入らない。花の色合わせも、席の配置も、同じだった。窓際の一番良い光が入る席には、耳が遠くなってきた老夫人を座らせる。胃を弱くしている客には、渋みの少ない二煎目を先に運ぶ。そうした細かな配慮の一つひとつに、招待客たちは満足し、満足の言葉はすべてヒルデガルトへ向けられた。
久しぶりに顔を合わせた客が、親しげにヒルデガルトへ歩み寄った。名前が一瞬出てこず、ヒルデガルトの視線が泳ぐ。盆を差し出すふりをして横を通ったアンネリーゼが、声に出さず唇だけで「マイヤー男爵夫人」と動かした。ヒルデガルトはすぐに笑顔で名を呼び返した。誰にも気づかれない、一秒に満たない出来事である。
会が終わりに近づいた頃、給仕を務めていた若い侍女が茶器を一つ、絨毯の上に落として割った。座は一瞬静まり、若い侍女の顔から血の気が引く。ヒルデガルトは軽く手を振った。
「気にしなくていいのよ。その程度、代わりはいくらでもいるでしょう」
穏やかな声だった。悪意はどこにもない。ただ、割れた器と、それを割った侍女と、代わりに用意されるはずの新しい器を、同じ重さで扱う声だった。アンネリーゼは黙って破片を集め、震える手の若い侍女の代わりに、自分の手で次の茶を運んだ。下がる時、若い侍女の背をそっと押し、控えの間へ先に戻るよう促した。それだけだった。
客の一人が、扇の陰でヒルデガルトに耳打ちするのが聞こえる。
「そういえば、今度ヴァーグナー男爵という方がこちらに商談でいらっしゃるとか」
「ああ、存じておりますわ。一代で財を成された方でしょう。夫が世話になっているとかで」
アンネリーゼは空いた茶器を下げながら、その名を胸のうちで一度だけ繰り返した。取引先の名前と数字は、覚えようとしなくても頭に残る。子供の頃からの癖のようなものだった。
茶会が終わり、客たちが次々と玄関へ向かう。馬車を呼ぶ順番は、爵位と到着順のどちらを立てるべきか、毎回さじ加減が分かれる。今日もその判断をし、御者に指示を出したのは、見送りに立つヒルデガルトの一歩後ろに控えていたアンネリーゼだった。
客が帰った後の客間には、花の匂いと、冷めた茶の匂いだけが残った。ヒルデガルトは満足げに息をつき、長椅子に身を沈める。
「今日は疲れたわ。後片付けは任せてもいいかしら」
「かしこまりました」
アンネリーゼは茶器を盆に重ね、割れた器の破片を丁寧に紙に包んだ。この手順を、誰かに教わったことはない。三年かけて、自分で決め、自分で守ってきたものだった。片付けを終える頃には、庭の木々の影がすっかり長くなっていた。控えの間へ戻る途中、膝を抱えて座っていた若い侍女に水を一杯届ける。多くは語らず、明日も同じ時間に来られるかとだけ尋ねた。若い侍女はこくりと頷いた。それで十分だった。
戸口でヒルデガルトが振り返る。
「今日もあなたのおかげで助かったわ。次の夜会もいつも通りお願いね」
「いつも通り」という一言には、案内状の宛名書きから、席次の割り振り、料理の献立、花の手配、当日の給仕の差配まで、すべてが含まれている。ヒルデガルトはその中身を、これまで一度も具体的に尋ねたことがなかった。頼めば誰かが必ずやってくれる。その誰かの名前を、覚える必要すら感じたことがない。
「承知いたしました」
短い返事だけを返し、アンネリーゼは片付けに戻った。
自室に戻ったのは、夜もすっかり更けた頃だった。寝る前に、今月の家政の帳面へ今日の茶会にかかった費用を書き込む。茶葉の代金、菓子の材料費、割れた器の弁償分。来月の夜会に回せる予算がどれだけ目減りしたかも、頭の中ですでに計算し終えていた。数字を並べる作業は、幼い頃に父の書斎で教わったやり方をそのまま守っている。桁を揃え、余白を残し、後から誰が見ても読み違えないように書く。教えてくれた父はもういない。やり方だけが、今も手に残っている。
机の引き出しの奥には、羽根ペンの替え穂先が数本しまわれている。誰かに見せるための道具ではない。必要な時に困らないための、ただの備えだった。穂先の隣には、もう一つ別の品がある。小さな銀の文鎮。表面には、今はもう誰も名乗る者のいない紋章が刻まれていた。父の書斎から、屋敷を出る日に持ち出した数少ない私物の一つである。誰かに由来を語ったことは一度もない。取り出しはしない。ただ、そこにあることだけを指先で確かめて、また引き出しの奥にしまった。
帳面を閉じ、明日の予定を頭の中で並べる。朝の発注、午後の来客対応、夕方までに仕上げる客への返信。誰に頼まれたわけでもなく、自分の頭の中だけにある予定表だった。それで屋敷が回っていることを、この家の誰も知らない。もし明日、自分がここにいなかったとしても、発注の期限も、返信の締切も、誰かが代わりに思い出してくれるとは思えなかった。それでも、そこまで考えて、帳面をしまう手を止めることはしない。
寝る前の最後の見回りとして、客間に戻る。使われた形跡のない椅子を二客、壁際へ静かに戻した。燭台の火を、一つずつ消していく。廊下の奥では、まだヒルデガルトの笑い声が続いていた。
客間の灯りを落とし終えても、彼女の名を呼ぶ声はどこにもなかった。




