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第19章 未定域リベル

 白い書庫には、匂いがなかった。


 黒い書庫には、紙の焦げるような匂いがあった。

 消しゴムの屑、破られた頁、インクの古い湿り気、誰にも読まれなかった言葉が淀んだ暗い匂い。


 だが、余白門の奥に開いた白い書庫には、それがなかった。


 清潔だった。

 整然としていた。

 棚は白く、床も白く、天井も白い。

 並んでいる記録箱も同じ大きさで、背表紙には均一な銀文字が刻まれている。埃ひとつない。乱れた紙片も、破れた頁もない。


 だからこそ、息が詰まった。


 リョウは、入口に立ったまま動けなかった。


 ここには、何かが死んでいる。

 そんな感覚があった。


 黒い書庫にあったものは、痛みを叫んでいた。

 怒り、未練、恥、未完成の熱。それらが黒い文字片となって飛び交っていた。

 白い書庫にあるものは、叫ばない。


 叫ぶことさえ整えられ、箱に入れられ、棚へ戻された記録だった。


 アレフは、書庫の中央を歩いていく。


 その足取りは、勝者のものではなかった。

 管理者のものでもない。

 毎日同じ墓を巡回してきた人間の、疲れきった歩き方だった。


「黒い書庫は、採用されなかった可能性の場所です」


 アレフは言った。


「怒りも、未練も、まだ形を求める熱も残っている。だから黒い。だから騒がしい」


 レムが、入口の影から白い棚を睨んでいる。


「ここは」


「私が削除したものを覚え続ける場所です」


 アレフは、振り返らずに答えた。


「校了の名で閉じた記録。統合のために外した声。残せば互いを削り合うと判断した矛盾。神筆会が公には保存しなかった失敗。私が主筆として覚えるべきもの」


 彼は一つの棚の前で止まった。


 銀文字のラベルが浮かび上がる。


 澪。

 ミラ。


 その隣には、別の箱。


 御影直。


 さらに、ヴァルダ外縁区。

 リヴェルナ王家密約。

 ジア分割実験。

 廻宵はつか維持記録。

 田辺小夜子。

 未詳測路士候補。

 現実層校訂事故記録。

 削除候補者一覧。


 その下に、数えきれない箱が続いている。


 名前のあるもの。

 名前のないもの。

 番号だけのもの。

 日付だけのもの。

 封印線で縛られたもの。


 アレフは、その棚へ手を触れた。


「私が覚えていなければ、彼らは二度消える」


 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


 それは本心だった。


 リョウには分かった。

 アレフは忘れたかったのではない。

 消したものを、忘れないことで償おうとしていた。

 世界から外した声を、自分だけは記録し続ける。

 他者に見せず、乱れも起こさず、けれど完全には消さない。


 その姿は、どこか御影透子に似ていた。

 閉じて守る。

 見せないことで、もう一度傷つけることを避ける。

 けれど、閉じたままでは、声は誰にも届かない。


 リョウは、一歩前へ出た。


「あなたが覚えていたことは」


 声が掠れた。


 彼は飲み込み、もう一度言った。


「あなたが覚えていたことは、なかったことにはしない」


 アレフが、ゆっくりリョウを見る。


「ならば、分かるはずです。誰かが覚えていなければならない。誰かが決めなければならない。混乱する記録を、どこかで閉じなければならない」


「でも」


 リョウは、白い棚を見る。


 そこに閉じ込められている名前たちを。


「あなた一人が決めていい理由にもならない」


 白い書庫の空気が、微かに震えた。


 アレフの目に、静かな痛みが走る。


「一人が決めなければ、誰も決められない時があります」


「あると思う」


 リョウは認めた。


「俺は、それを簡単に否定できない。ミレシア殿下も、カインも、透子さんも、みんな何かを決めなきゃいけない場面があった。俺だって、書いた。書いてしまった」


 右手の断章印が、鈍く熱を持つ。


「でも、決めた後に閉じたら終わりじゃない。聞けなかったなら、あとからでも聞く。間違えたなら、間違えたって残す。あなた一人が全部を覚えて、全部の結末を決める形は、もう終わらせる」


 アレフは、答えなかった。


 その沈黙の中で、透子が前へ出た。


     *


 御影透子は、白い書庫の中で、誰よりも顔色が悪かった。


 ここは彼女にとって、他人事ではない。


 整然と閉じられた記録。

 閲覧不可の棚。

 削除ではないと名づけられた隔離。

 すべて、彼女が知っている手つきだった。


 透子は、閉架書庫の鍵を握りしめている。


 指先が震えていた。


 はつかが彼女を見ている。

 リョウも、カイも、直の名を知っている者たちも、何も言わない。


 促されていない。

 責められてもいない。

 だから、逃げられなかった。


 透子は、御影直の記録箱の前に立った。


 銀文字のラベルは、冷たいほど整っている。


 御影直。

 現実層小断章接触事故。

 自己存在不確定化。

 記録侵食拡大。

 閉架処理。


 透子の喉が動いた。


「直」


 箱は答えない。


 当たり前だった。


 透子は閉架鍵を差し込んだ。


 鍵穴などなかったはずの白い箱に、鍵穴が生まれる。

 彼女が閉じたものだから、彼女の鍵で開く。


 回す。


 硬い音がした。


 箱が開いた。


 中から、薄い記録が浮かび上がる。


 少年の筆跡。

 走り書きのメモ。

 図書館の閲覧票。

 小断章に触れた日の記録。

 存在の揺らぎを訴えた言葉。


 ――姉さん、僕は本当にここにいる?


 透子の肩が震えた。


 さらに頁がめくれる。


 校訂官報告。

 被害拡大防止のため、接続切断および閉架処理を推奨。

 家族同意確認。

 処理実行。


 その下に、小さな音声記録の断片。


 ――決める前に、僕に聞いてほしかった。


 透子は、目を閉じた。


 何度も聞いた声だった。

 聞かないようにして、それでも忘れられなかった声だった。


「直」


 彼女は言った。


「私は、あなたに聞かなかった」


 謝罪の言葉は、その後に来なかった。


 ごめんなさい、と言えば楽になる。

 赦して、と言えば、さらに楽になる。

 けれど、この記録は透子を赦すために開かれたものではない。


「あなたを守るためだと思いました。被害を止めるためだと思いました。苦しみを長引かせないためだと思いました」


 声が震える。


「でも、私はあなたに聞かなかった。あなたが、どうしたいかを」


 白い記録が揺れた。


 直は戻らない。

 少年の形を取って現れることもない。

 ただ、記録の端に小さな栞が生まれた。


 薄い灰色の栞。

 直という名が刻まれている。


 透子は、それを両手で受け取った。


 はつかが、静かに見ていた。


 透子は振り返らないまま言う。


「廻宵さん」


「はい」


「私は、あなたを直の代わりにも、償いにもできません」


「はい」


「私は、あなたを削除しようとしました」


「はい」


「叔母として過ごした時間を、全部嘘だったとも言えません」


 はつかは、少し間を置いた。


「はい」


「都合がいいですね」


 透子の声が低くなる。


「どちらも本当だと言うのは」


「都合がいいかもしれません」


 はつかは答えた。


「でも、私も、どちらか一つにできません」


 透子は目を伏せた。


 直の栞を胸元へ抱く。


「閉じて守るのではなく、開いて残す方法を探します」


 その言葉に、閉架目録が開いた。


 御影直だけではない。


 廻宵はつか維持記録。

 現実層校訂事故記録。

 削除候補者一覧。

 田辺小夜子、代替被害候補記録。

 未処理接触者記録。

 市役所更新履歴保全メモ。


 白い書庫の棚から、それらの箱が浮かび上がる。


 透子はもう、閉じるためだけの管理者ではなかった。

 開いた記録を、どう扱うか。

 その責任を、これから背負う者になろうとしていた。


     *


 アレフは、澪とミラの記録箱の前に立っていた。


 白い書庫の中で、その箱だけが少し古びている。

 何度も開き、何度も閉じ、何度も封印し直された跡があった。

 白い塗装の下に、黒いひびが細く残っている。


 はつかとジアは、自然に並んで前へ出た。


 二人の相互署名が、淡く光っている。


 アレフは、その光を見る。


「あなた方の術式は、私が失敗したものに近い」


 ジアが息を呑む。


 はつかは、緑青色の本を抱く。


「近い、だけです」


 はつかは言った。


「私たちは、一つになることを選びませんでした」


「私も、最初はそう望みました」


 アレフの声は、遠かった。


「澪とミラ。二人を、二人のまま残したかった。どちらかを削除するのではなく、統合するのでもなく。それぞれの名前で立てるようにしたかった」


 彼は記録箱へ手を置く。


「だが、私は失敗しました」


 箱が開いた。


 白い光の中に、二つの輪郭が現れる。


 少女たちだった。


 完全な姿ではない。

 顔は霞み、声もはっきりしない。

 片方は現実層に近い制服のような服を着ている。

 もう片方は異典層の淡い術式衣に似た衣装をまとっている。

 けれど、二人とも名前だけは読み取れた。


 澪。

 ミラ。


 アレフは、その名を見て、長い時間言葉を失った。


 そして、初めて声に出した。


「澪」


 少女の輪郭が揺れる。


「ミラ」


 もう一人の輪郭も、わずかに光る。


 アレフの表情から、主筆としての整った静けさが消えた。


「私は、君たちを救えなかった」


 言葉は、それだけだった。


 赦しを求める言葉ではない。

 正当化でもない。

 校訂の説明でもない。


 失敗を、失敗として認める言葉だった。


 澪とミラは何も言わない。


 言えないのかもしれない。

 言わないことを選んでいるのかもしれない。

 どちらかは分からない。


 ジアが、術式帳を開く。


「完全には戻せません」


 彼女は言った。


「戻すことを、私たちが決めるべきでもありません」


 はつかが続ける。


「でも、なかったことにはしません」


 二人の相互署名が光る。


 ジアの《仮記述》が、澪とミラの輪郭に一時的な形を与える。

 はつかの《余白校訂》が、その形を正典へも余白へも押し込まず、保留として支える。


 少女たちは、人の姿には戻らなかった。


 代わりに、二つの小さな栞になった。


 一つは淡い青。

 一つは淡い紫。

 そこには、それぞれの名が刻まれている。


 澪。

 ミラ。


 栞は、はつかとジアの間に浮かんだあと、未定域へゆっくり沈んでいく。

 消えるのではない。

 閉じられるのでもない。

 まだ答えの出ていない場所へ、保留として残る。


 アレフは、それを見ていた。


 彼の手がわずかに伸びかけ、止まる。


「触れないのですか」


 リョウが聞いた。


 アレフは、目を伏せた。


「私が触れれば、また結論を与えようとするでしょう」


 その声は、痛々しいほど静かだった。


「今は、触れない方がよい」


     *


 白い書庫の中央で、ミレシアは王杖アステリアを掲げた。


 棚に並ぶ削除記録が、一斉に揺れる。


 全てを一気に開けることもできた。


 王家公示術を使えば、白い書庫に保存されていた密約や削除記録を、王都中へ流すことも不可能ではない。

 そうすれば、隠されていた声は閉じられずに済む。


 だが、その瞬間、リヴェルナは混乱に沈むだろう。


 避難路の正当性。

 戸籍。

 王位継承。

 救われたと信じて生きてきた者の記憶。

 失われた者の遺族の怒り。

 神筆会に依存してきた水路管理。

 すべてが一度に崩れる。


 ミレシアは、その危険をもう知っている。


 隠すことも、叩きつけることも、どちらも人を傷つける。


「王家公示」


 彼女は静かに宣言した。


 青い水路の文字が、白い書庫の床を走る。


「リヴェルナ王家は、神筆会との密約、および水路記録改稿に関する調査制度を設けます」


 アレフが彼女を見る。


「制度」


「はい」


 ミレシアは答えた。


「一度に全てを公開すれば、民の生活が壊れます。だからといって、閉じ続ければ、また誰かの声が消えます」


 王杖の光が、棚の記録へ触れる。


「証言保護。複数記録保存。記録公開の順番を検証する機関。王家と神筆会の密約調査。避難路と戸籍の生活基盤を守るための開示手順。それらを、王家の責任で始めます」


 ファンタは、その横顔を見ていた。


 彼女は、劇的な真実の暴露を選んでいない。

 だが、隠蔽継続も選んでいない。


 もっと面倒で、批判され、時間がかかり、誰にも完全には喜ばれない道を選んでいる。


 ミレシアはアレフへ向いた。


「真実は、隠すものでも、叩きつけるものでもありません。扱う責任があります」


 アレフは静かに返す。


「その間に、消える声があります」


「だから、保留する仕組みを作ります」


「保留は救済ではない」


「はい」


 ミレシアは頷く。


「でも、削除でもありません。強制統合でもありません。私たちは、完全な救済ではなく、扱い続ける責任を選びます」


 王杖の青い文字が、白い書庫の棚へ小さな印を刻む。


 公開。

 保護。

 保留。

 未検証。

 異議あり。

 複数証言。


 それらは結論ではなかった。

 だが、結論に押し潰されないための制度だった。


     *


 レムは、白い書庫の入口で立ち止まっていた。


 黒い書庫の住人である彼にとって、ここは肌に合わない場所だった。

 整いすぎている。

 静かすぎる。

 怒りが白い箱へ仕舞われている。


「気に入らない」


 彼は低く言った。


「でしょうね」


 はつかが答える。


「君もそう思うか」


「はい。少し」


 レムは、彼女を見る。


 はつかは続けた。


「でも、ここに残っていたから、今開けた記録もあります」


「閉じ込められていたとも言える」


「はい」


「残っていたとも言える」


「はい」


「都合の悪い答えだ」


「最近、そればかりです」


 レムは、わずかに口元を歪めた。


 黒い書庫から、黒稿体たちの流れが白い書庫へ触れようとしている。

 だが、レムはもう、それらを一つの怒りとして進ませない。


 彼は黒い頁を開いた。


 白い書庫と黒い書庫の間に、小さな領域が生まれる。


 白でも黒でもない場所。

 紙の色は薄い灰で、ところどころ緑青と金が滲み、端に青い水路の光が走っている。

 そこには棚がない。

 代わりに、まだ書き込める余白の台がいくつも浮かんでいる。


 レムは、その最初の頁へ名前を書いた。


 ユノ。


 赤い髪留めの少女の輪郭が、少しだけ安定する。

 彼女は現実へ戻らない。

 異典層の新しい役にも入らない。

 ただ、名を得た余白として、その場に座る。


 次に、レムは空白を残した。


 名を持たない少女たち。


 その横に、はつかが緑青の文字で補った。


 未定。削除不可。


 ジアが金の仮記述を添える。


 選択保留。


 レムは、それを見てから、次の頁へ書く。


 未詳測路士。


 カインが口を挟んだ。


「そのまま記すのか」


「完全な名が分からない」


「なら、それでいい。勝手に命名するよりはましだ」


 カインは測路杖で、その頁に小さな道標を刻む。


 異典層側記録、照合中。


 レムは頷き、黒稿体たちへ向き直る。


「私は、彼らの王ではない」


 声は、白い書庫にも黒い書庫にも響いた。


「だが、彼らが別々の声でいる場所を、荒らさせはしない」


 その場所に、名が生まれた。


 リベル。


 誰が最初にそう呼んだのかは分からない。


 リョウには、どこかで本の頁がめくれる音と、自由を意味する言葉と、余白を残す響きが同時に重なったように聞こえた。

 ミレシアは、公的名称としてはまだ未承認だと苦い顔をした。

 カイは病室から「響きはかっこいい」と言った。

 カインは「地図に記すには短くていい」と評価した。

 ジアは「未定域リベル」と書き留めた。

 はつかは、その文字の横に小さく「仮」と添えた。


 レムは、不服そうに言った。


「仮なのか」


 はつかは真面目に頷く。


「未定域ですから」


「……それもそうか」


 白い書庫と黒い書庫の間に、未定域リベルが生まれた。


     *


 カイの音声錨は、白い書庫の奥へ届いていた。


 病室のベッドの上で、カイは汗をかいていた。

 長時間の接続で、顔色はかなり悪い。芽衣は何度も止めようとして、そのたびに唇を噛んでいる。

 湊は放送卓にしがみつくようにして波形を追い、怜奈は記録名を読み上げ続けていた。


「田辺小夜子」


 怜奈が言った。


 画面に、病院記録から滲んだ名前が浮かぶ。


 代替被害候補。

 事故消去文保留時、置換対象。

 未確定者。


 カイは、その文字を睨んだ。


『違う』


 声が掠れている。


『田辺小夜子』


 モニター音が乱れる。


『俺の事故の代わりとか、そういう名前じゃない』


 芽衣が小さく息を吸う。


 カイは続けた。


『その人の名前として残せ』


 湊が録音ボタンを押し直す。


「音声錨、田辺小夜子さんの名前を固定します」


 怜奈が横で書く。


「代替被害候補、ではなく、田辺小夜子。事故記録照合中。証言保護対象」


 透子の開放目録が、それを受け取る。


 誠司の手書き保全メモも、白い書庫の中で小さく光った。

 書類上は未確定。

 けれど、名前が消えないように残された痕跡。


 カインは、異典層側で同じように地図を見ていた。


「こちらにも、名のない測路士候補がいる」


 彼は眉を寄せる。


「カインさん、名前は?」


 ジアが聞く。


「分からない」


「仮に名前をつけますか」


「つけない」


 カインは即答した。


「分からないなら、分からないと書く。未詳測路士。地竜照応時、代替負傷候補。記録照合中」


 ジアは頷き、仮記述を添える。


「分からないことを、名前で埋めないんですね」


「道でも同じだ。見えていない場所に橋を描くと、落ちる」


 カインは測路杖で、未詳測路士の記録へ細い道をつないだ。


 戻るのではない。

 消すのでもない。

 照合中として、未定域リベルへ保留する道。


 カイの音声錨が、それに呼応する。


 声。

 道。

 署名。

 目録。

 公示。

 黒い頁。

 断章の放棄文。


 それらが、余白門の構造を書き換えていく。


 門は、もう一つの入口ではなくなった。


 削除の出口でもない。

 全帰還の入口でもない。

 正典統合装置でもない。


 個体ごとに、行き先を選ぶための不安定な分岐門。


 それが、未定域リベルの核になった。


     *


 アレフは、その変化を見ていた。


 白い書庫の棚が、少しずつ開いていく。

 彼が一人で抱えていた記録が、白い箱から出て、別々の場所へ移されていく。


 黒い書庫へ。

 未定域リベルへ。

 ミレシアの証言制度へ。

 透子の開放目録へ。

 はつかとジアの余白校訂と仮記述へ。

 カイとカインの音声錨と重層路図へ。

 リョウの断章の余白へ。


 それは、アレフから記録を奪う行為にも見えた。


 彼の長い記憶。

 彼の償い。

 彼が忘れないことで守ろうとしたもの。


 その一部が、彼一人の手を離れていく。


「では」


 アレフが言った。


 声は静かだったが、今までで最も鋭かった。


「誰が責任を取るのです」


 全員が、彼を見る。


「レム=ネグラは王ではないと言った。ミレシア王太女は制度を作ると言った。御影透子は開いて残すと言った。久世遼は一人で決めないと書いた」


 アレフの目が、深い疲労を帯びる。


「では、誰が最後に責任を取る。分散された記憶のどこかで、また誰かが忘れられた時。保留のまま消えた時。公開の順番を待つ間に死んだ時。道を選べずに立ち尽くした時。誰が、その痛みを引き受けるのです」


 正しい問いだった。


 リョウは、すぐには答えられなかった。


 誰か一人が背負えば分かりやすい。

 主筆。王。英雄。作者。代表者。

 責任を一点へ集めれば、世界は読みやすくなる。


 だが、それが唯一正典の始まりだった。


 リョウは、息を吸った。


「一人じゃない」


 アレフの視線が、リョウへ刺さる。


「だから無責任になる」


「違う」


 リョウは首を横に振った。


「一人じゃない。だから、逃げられない」


 アレフの表情が止まった。


「俺一人が書いた結末なら、俺が閉じて終わりにできる。あなた一人が覚えている記録なら、あなたが校了して終わりにできる。でも、分けたら終わらない。ミレシア殿下は制度を続けなきゃいけない。透子さんは目録を開いた後も向き合わなきゃいけない。レムは声がばらばらな場所を守り続けなきゃいけない。カイもカインも、声と道を残した後の傷を生きなきゃいけない。はつかとジアも、互いを所有しないまま関わり続けなきゃいけない」


 リョウは、自分のノートを見た。


「俺も、書いたら終わりじゃない。読まれる。怒られる。誤読される。返事を聞く。逃げたくなる。それでも、また開く」


 声が震える。


「一人が全部取る責任じゃなくて、みんなが逃げられなくなる責任を選ぶ」


 アレフは、長い沈黙を置いた。


「それは」


 彼は言った。


「苦しい道です」


「はい」


 ミレシアが答えた。


「遅い道です」


 カインが答える。


「遅くても、道は道です」


「救えない者が出ます」


 ジアは唇を噛み、それでも言った。


「出ます。だから、救えなかったことを消さずに残します」


「赦されない罪が残ります」


 セヴランが低く言う。


「残る。だから、英雄譚で覆わない」


「怒りは消えません」


 レムが答える。


「消えない。だから、一つにまとめて処理しない」


 アレフは、彼らを見た。


 世界を校了しようとした主筆の目に、初めて深い迷いが浮かんだ。


     *


 白い書庫の奥で、澪とミラの栞が光った。


 アレフは、その光を見る。


 青と紫の小さな栞。


 完全には戻らない。

 答えも出ていない。

 救われたと言えるのかも分からない。


 だが、閉じられてはいない。


 アレフは、ゆっくり歩み寄った。


 誰も止めなかった。


 彼は栞の前で立ち止まり、膝をついた。


 主筆としてではなく、失敗した一人の編纂官として。


「澪」


 青い栞が揺れる。


「ミラ」


 紫の栞が揺れる。


「まだ、答えは出ていない」


 アレフの声は、かすかに震えていた。


「私は、答えを出したつもりでいました。二度と君たちのような苦痛を生まないために、迷いを終わらせると決めた」


 彼は、目を閉じる。


「それでも、閉じないのですね」


 誰に向けた問いかは分からなかった。


 澪とミラへか。

 リョウたちへか。

 自分自身へか。

 あるいは、まだ名前を持たない余白の声へか。


 青と紫の栞は、答えない。


 ただ、消えずにそこにある。


 アレフは立ち上がった。


 その背後で、主筆の紋章が薄れていく。


 羽根ペンと開いた本を重ねた印が、白い光の粒になってほどける。

 彼が持っていた権限が、書庫の中から外へ流れ出す。


 削除記録を一人で保管する権限は、透子の開放目録と未定域リベルへ。

 正典を決める権限は、ミレシアの証言制度とリョウの放棄文へ。

 余白を校了する権限は、レムの黒い書庫とはつかたちの余白校訂へ。

 痛みを一つの結論へまとめる権限は、カイの音声錨とカインの重層路図へ分散される。


 アレフは、その流れを抵抗せずに受けていた。


 だが、穏やかに納得したわけではない。


 彼の目には、まだ疑いがあった。

 この未完成な仕組みが、本当に誰かを救えるのか。

 また誰かを苦しめるだけではないのか。

 その疑いは消えていない。


 それでも、彼はもう校了できなかった。


 権限が失われていく。


 アレフの身体が、白い書庫の奥へ薄れていく。


「アレフ」


 リョウが呼んだ。


 アレフは振り返る。


「あなたを、赦したわけじゃない」


「分かっています」


「でも、覚えていたことは、誰かに渡される。なかったことにはしない」


 アレフは、少しだけ目を伏せた。


「それが、あなた方の責任ですか」


「たぶん」


 リョウは答えた。


「まだ、うまく言えない。でも、そうする」


 アレフは、初めてほんのわずかに笑ったように見えた。


 笑みというには、あまりに疲れていた。

 諦めにも似ていた。


「未完成ですね」


「はい」


 はつかが答えた。


「未定域ですから」


 アレフは、彼女を見る。


「廻宵はつか」


 はつかの名前が、白い書庫に響いた。


「あなたの記録も、完全ではない」


「はい」


「それでも、あなたは残るのですね」


「残ります。今は」


「今は、ですか」


「はい。先のことを、今ここで全部決めたくありません」


 アレフは、静かに頷いた。


「それもまた、苦しい」


「はい」


「それでも」


「それでも」


 アレフの輪郭が、さらに薄くなる。


 彼は最後に、澪とミラの栞を見た。


 そして、余白門の奥へ歩き出した。


 死んだのか、生きているのか。

 消えたのか、未定域のさらに奥へ入ったのか。

 誰にも分からない。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 彼はもう、世界を校了する主筆ではなかった。


     *


 白い書庫が、崩れ始めた。


 だが、それは破壊ではなかった。


 棚がひとつずつほどけ、記録箱がそれぞれの行き先へ移っていく。

 黒い書庫へ入るもの。

 未定域リベルへ保留されるもの。

 リヴェルナの証言制度へ送られるもの。

 現実層の閉架目録へ渡されるもの。

 音声錨に名前だけ残るもの。

 重層路図の保留道へ置かれるもの。


 余白門そのものも、形を変えていた。


 巨大な白い頁ではない。

 黒い裂け目でもない。

 水面でも、鏡でも、傷口でもある。

 そこに、いくつもの小さな道標が浮かんでいる。


 戻る。

 残る。

 眠る。

 名を得る。

 未定。

 照合中。

 異議あり。

 保留。

 まだ選ばない。


 それらは不安定だった。


 明日にも揺らぐかもしれない。

 誰かが悪用するかもしれない。

 選べない者をどう扱うか、まだ問題は山ほどある。

 だが、もう一つの出口でも一つの入口でもなかった。


 未定域リベル。


 余白門は、その核として残る。


 レムは、黒い頁を閉じた。


「ここは美しい場所ではない」


 彼は言った。


「迷い、怒り、未練、保留、未確定。そういうものばかりが集まる」


「でも、必要な場所です」


 ミレシアが答える。


「必要だからといって、正しいとは限らない」


 カインが言う。


「なら、地図を更新し続ける」


 カイの声が、少し弱く入る。


『その更新、録音いる?』


「いる」


 湊が即答した。


『音羽、最近強くなったな』


「相馬くんたちのせいです」


「責任転嫁だ」


 怜奈が言う。


「でも、記録には残します」


 芽衣の声が少し遠くから入った。


「カイ、もう限界。そこまで」


『えー』


「えー、じゃない」


『でも』


「自分で決めるなら、やめる判断も自分でしなさい」


 カイは黙った。


 それから、小さく笑った。


『……じゃあ、今はやめる。録音停止じゃなくて、一時停止な』


 湊が言う。


「一時停止で記録します」


 病室の音声が、少しずつ遠ざかる。


 カイのモニター音は、もう均一な拍子ではなかった。

 不規則で、生活音に混じっていて、確かに一人の人間のいる場所を示していた。


     *


 三層が、ゆっくり離れていく。


 綴原高校図書室の本棚に色が戻る。

 完全ではない。何冊かの背表紙には、白い栞のような印が残っている。

 それは閉架目録へつながる痕跡だった。


 星見校典塔の天球儀が、再び回り始める。

 消えたままの星名もある。新しく仮名を得た星もある。

 カインの重層路図には、未定域リベルへの細い道が赤紐で結ばれていた。


 黒い書庫には、以前より少しだけ棚が増えている。

 だが、そこはもう単に怒りを溜めるだけの場所ではない。

 レムの黒い頁には、いくつもの名前と未定記号が並んでいる。


 水路王都リヴェリスの水には、青が戻った。

 ただし、水底には黒い文字片と白い証言印が沈んでいる。

 ミレシアの公示は、これから国を揺らすだろう。

 それでも、水路は流れている。


 綴原総合病院の廊下では、カイの病室のモニター音が続いている。

 ベッド脇で芽衣が深いため息をつき、カイが何か言い訳をしている。

 その声は、もう親友役の声ではない。


 市役所の文書管理課では、久世誠司が防火保管庫の前で立っていた。

 手書きのメモが、なぜか一枚増えている。


 未定域リベル、照合中。


 彼は首を傾げるだろう。

 だが、きっと捨てない。


 余白門は閉じない。


 ただし、もう神筆会の削除の出口ではない。

 レムが望んだ全帰還の入口でもない。

 アレフの正典統合装置でもない。


 それは、不安定で、未完成で、面倒で、扱いにくい門として残った。


 選ぶために。

 まだ選ばないために。

 名前を消さないために。


 リョウは、消えかける白い書庫の入口で立ち止まった。


 手の中には、《アヴァターラ断章》がある。

 その頁には、彼の一文だけが残っている。


 この先を、ひとりの書き手が決めることはできない。


 その下に、無数の細い余白が開いていた。


 誰かが書くための余白。

 誰かが黙るための余白。

 誰かがまだ決めないための余白。


 リョウは、断章を閉じた。


 終わったわけではない。


 けれど、校了はされなかった。

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