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終章 これは、俺ひとりの物語ではない

 綴原高校は、三日間閉鎖された。


 表向きの理由は、校舎設備の事故だった。


 図書室の配電設備に一時的な異常が発生し、閉架資料の一部に管理上の混乱が生じた。

 放送室では機材トラブルが起き、校内ネットワークにも一時的な不具合が確認された。

 市立図書館との資料連携に誤登録があり、郷土資料室と学校図書室の間で一部データの照合が必要になった。


 説明会で配られたプリントには、そう書かれていた。


 どの言葉も、間違いではない。

 配電設備は確かに異常を起こした。

 図書室の資料管理も混乱した。

 放送室の機材は、音羽湊が見たこともない負荷を受けて一部交換になった。

 市立図書館と市役所の文書管理課で、記録の照合が必要になったのも事実だった。


 ただ、それだけではなかった。


 学校が再開する前日、リョウは校門の前に立っていた。


 立入禁止の黄色いテープは外されている。

 だが、校舎の窓にはまだ数枚、白い養生シートが貼られていた。図書室の窓にも、一箇所だけ新しいガラスが入っている。

 旧校舎へ続く渡り廊下は封鎖されたままで、放送室のドアには「設備点検中」の紙が残っていた。


 何もなかったことには、なっていない。


 けれど、何があったのかを正確に言える人間も、ほとんどいなかった。


 岸本怜奈が集めた証言群は、彼女のノートと複数のデータに分散して残っている。

 音羽湊の音声アーカイブには、均されなかった呼吸音と、病室のモニター音と、誰かが怒る声と、紙がめくれるようなノイズが残っている。

 久世誠司の手書きメモには、市役所の更新履歴の不自然な時刻と、「廻宵はつか」「田辺小夜子」「未定域リベル」という、彼自身にも説明できない単語が記されている。


 だから、完全には隠しきれない。


 生徒たちの間では、いろいろな噂が流れた。


 図書室で停電があった。

 放送室から誰もいないはずの声が流れた。

 昔の卒業アルバムに知らない人が写っていた。

 旧校舎の廊下が一瞬だけ違う場所につながった。

 病院の記録に、事故に遭っていない人の名前が出た。


 どれも、少しずつ違う。

 どれも、少しずつ合っている。


 怜奈は、それらを無理に一つの噂へまとめなかった。


 彼女は廊下の掲示板に貼られた「学校再開のお知らせ」を見ながら、スマートフォンに短く入力していた。


「また記録してるのか」


 リョウが声をかけると、怜奈は顔を上げた。


「してる。今度は、まとめすぎないように」


「岸本がそれ言うの、ちょっと意外だな」


「私もそう思う」


 怜奈は真面目な顔で言った。


「噂って、広がるうちに強い形にまとまるでしょ。面白い話、怖い話、分かりやすい犯人、泣ける結末。そうすると、そこから外れた人の話が消える」


 彼女は、掲示板の隅に貼られた図書室再開予定を見た。


「だから、今回はばらばらに残す。矛盾してても、違ってても。誰かが『そんな話はなかった』って言った時に、『いや、こう覚えてる人もいる』って言えるように」


 リョウは、少しだけ笑った。


「岸本、すごいな」


「すごくはない。好奇心がしつこいだけ」


「それ、結構すごいと思う」


「褒められてる気がしない」


「褒めてる」


 怜奈は肩をすくめた。


「じゃあ、記録しておく」


     *


 カイが学校へ戻ってきたのは、さらに一週間後だった。


 朝の昇降口は、いつもより少し静かだった。

 噂を聞いた生徒たちが、わざと見ないふりをしている。

 けれど、視線はどうしても集まる。


 カイは杖をついていた。


 病院で練習した歩き方は、まだぎこちない。

 右手に杖。左脚には軽い補助具。階段を避けるために、しばらくはエレベーター使用の許可が出ている。

 歩くたびに、彼は一度だけ口元を引き結ぶ。痛みを堪える時の癖だった。


 それでも、昇降口に立った彼は、いつもの調子で手を上げた。


「おー。生還」


 周囲の何人かが、笑っていいのか迷う顔をした。


 リョウは、靴箱の前で立ち止まっていた。


 何と言えばいいのか、まだ分からない。


 退院おめでとう。

 大丈夫か。

 ごめん。

 無理するな。

 歩けてよかった。


 どれも違う気がした。


 カイは、そんなリョウの顔を見て、少し眉を上げた。


「何その顔。俺の方が怪我人なんだけど」


「……おかえり」


 ようやく出た言葉は、それだった。


 カイは一瞬だけ黙った。


 それから、少しだけ口元を緩める。


「ただいま、でいいのかこれ」


「たぶん」


「たぶんかよ」


 カイは靴を履き替えるのに、少し時間がかかった。

 杖を壁に立てかけ、手すりに掴まり、左脚を慎重に動かす。

 リョウは手を出しかけて、止めた。


 カイがちらりと見る。


「出すなら聞け」


「手、貸していいか」


「今はいい。転びそうになったら言う」


「分かった」


「分かったって顔が重い」


「重くなるだろ」


「まあ、なるか」


 カイは、靴を履き終えた。

 杖を取る。


 その時、昇降口の外から芽衣が声をかけた。


「カイ、無理したら連絡するからね」


「姉ちゃん、校門まで来るの過保護」


「過保護です」


 相馬芽衣は、腕を組んで立っていた。

 弟を送ってきたらしい。

 顔色は相変わらず厳しい。視線がリョウへ向くと、リョウの背筋は自然に伸びた。


 芽衣は近づいてきた。


 リョウは頭を下げる。


「相馬さん」


「久世くん」


 彼女は、少しの間リョウを見ていた。


 その目には、簡単には消えない怒りがあった。

 病室で最初に向けられた鋭さと同じものだ。

 ただ、今はそこに疲れと、見守るしかない人間の苦さが混じっている。


「私はまだ怒ってる」


 芽衣は言った。


「はい」


「あなたが何をしたのか、全部分かったわけじゃない。たぶん、分かっても許せる話じゃない部分もある」


「はい」


「でも、あんたたちが話すのを、私が代わりに終わらせることもしない」


 リョウは顔を上げた。


 芽衣は、カイを見た。


「カイが話すって決めたなら、それはカイのことだから」


「姉ちゃん」


「ただし」


 芽衣の声が鋭くなる。


「また勝手に抱えたり、勝手に終わらせたり、勝手に許したことにしたりしたら、両方怒る」


 カイが苦笑する。


「両方?」


「両方」


「リョウだけじゃなく?」


「当然」


 カイは肩をすくめた。


「こわ」


「怖くて結構」


 芽衣は最後にリョウを見た。


「久世くん。カイは馬鹿だけど、馬鹿なりに自分で決めたがるから」


「はい」


「決めさせて」


「はい」


 その返事に、芽衣は小さく頷いた。


 そして、カイに向かって言った。


「帰り、迎えに来る」


「一人で帰れるって」


「初日は迎えに来る」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


 カイが渋々頷く。

 芽衣はそれを確認してから、校門の方へ戻っていった。


 彼女の背中を見送りながら、カイがぼそっと言う。


「俺、まだ怒ってるからな」


 リョウは、カイを見る。


「うん」


「でも、話さないと、また勝手に決めるだろ」


「……それは、たぶんそう」


「そこは否定しろよ」


「努力する」


「努力かよ」


 二人は、少しだけ笑った。


 笑ったあと、すぐに沈黙が来た。

 完全に元通りではない。

 笑えば全部が許されるわけでもない。

 カイの左脚は痛むし、リョウの中にはまだ消えない罪悪感がある。


 それでも、沈黙の質は前と違っていた。


 言わなかったことを、勝手に決めるための沈黙ではない。

 次に何を言うかを、互いに待つための沈黙だった。


     *


 はつかの記録問題は、完全には解決しなかった。


 それは、リョウにとって少し意外で、同時に当然のことでもあった。


 世界を校了させる権限が失われても、現実社会の制度は突然柔らかくならない。

 戸籍には出生の記録が必要だ。

 住民記録には転入や保護者の情報が必要だ。

 学校に在籍するには、学籍と緊急連絡先と健康記録が必要になる。


 はつかには、完全な出生原資料がない。


 神筆会が挿入した仮固定の記録は、未定域リベルの成立後も消えなかったが、完全な公的証明にもならなかった。

 市役所の端末上では、いくつかの項目が「確認保留」になっている。

 学校側では、特例的な支援対象として扱われ、緊急連絡先には一時的に久世家と、調査中の御影透子の名が並んだ。


 その手続きの多くに、久世誠司が関わった。


 リョウはある日の夕方、市役所のロビーで父とはつかを待っていた。


 窓口業務の終わった庁舎は、昼間より静かだ。

 照明の白さと、床の硬い反射。

 遠くでプリンターが一度だけ鳴る音。


 やがて、誠司が書類の束を抱えて出てきた。

 隣には、はつかがいる。

 彼女は少し緊張した顔で、薄いファイルを胸に抱えていた。


「終わった?」


 リョウが聞く。


「終わった、とは言いにくいな」


 誠司は眼鏡を直した。


「確認保留が増えた。支援対象としての扱いも仮だ。正式な出生原資料がないことに変わりはない」


 はつかの指がファイルを握る。


 リョウは言葉を探したが、誠司が先に続けた。


「ただ、確認保留ということは、削除ではない。処理不能として放置もしない。継続確認する記録になる」


 はつかが顔を上げる。


 誠司は、いつもの事務的な口調で言った。


「書類がないものを、すぐ存在しないとは扱わない。ただ、社会は書類で動く。だから、動ける形を一つずつ探す」


 その言葉は、派手な救いではなかった。


 はつかの過去を作ってくれるわけでもない。

 彼女の不安定さを完全に解決するわけでもない。

 それでも、社会の硬い仕組みの中で、消さないための細い道を探す言葉だった。


 はつかは、少しだけ頭を下げた。


「ありがとうございます」


 誠司は困ったように目を逸らした。


「礼を言われるようなことは、まだ何もできていない」


「それでも、です」


「そうか」


 誠司は、少し間を置いて頷いた。


 リョウは父の横顔を見た。


 昔から、真面目で地味な人だと思っていた。

 物語の主人公にはならない。

 特別な剣も、魔法も、断章印も持たない。


 けれど、消えかけた名前を「確認中」として保管庫へ入れた人だった。


 その小さな手続きが、はつかを支えた。


 リョウは、少しだけ胸が熱くなった。


「父さん」


「何だ」


「ありがとう」


 誠司は、今度こそ明らかに困った顔をした。


「急に何だ」


「言っとこうと思って」


「そうか」


「うん」


「……帰るぞ。母さんが夕飯を作りすぎている」


 その言い方がいつも通りで、リョウは少し笑った。


     *


 はつかは、選ぶ練習を始めた。


 それは、本当に小さなことからだった。


 図書室が再開する前、リョウとはつかは駅前の商店街を歩いた。

 まだ制服ではなく私服だ。

 はつかは、淡いグレーのカーディガンに、紺のスカートを合わせている。以前なら、誰かが用意した「自然に見える服」をそのまま着ていた。

 だが今日は、自分で選んだらしい。


「それ、好きなのか」


 リョウが聞くと、はつかは自分の袖を見た。


「まだ分かりません」


「分からない?」


「色は好きです。着心地も悪くありません。でも、『好きな服』と言い切るには、まだ経験が足りない気がします」


「好きって、そんなに審査必要か」


「必要です。私には」


「そっか」


 商店街の小さな喫茶店に入り、飲み物を選ぶ時も、はつかは真剣だった。


 メニューを見つめる。

 紅茶、コーヒー、ミルクティー、レモネード、季節のハーブティー。


「御影さんが出してくれたお茶は、温かくて少し苦いものでした」


 はつかが呟く。


「それと同じにする?」


「同じにしたい気持ちと、違うものにしたい気持ちがあります」


「じゃあ、違うものにして、次に同じの頼めば」


 はつかは、驚いたようにリョウを見た。


「次がある前提なんですね」


「あるだろ」


 リョウは言ってから、少し遅れてその重さに気づいた。


 はつかは、しばらく黙った。


 それから、ゆっくり頷く。


「では、今日はレモネードにします」


 店員が去ったあと、はつかは窓の外を見た。


「黄色は、少し怖いです」


「なんで」


「私の中にある記憶には、黄色い光が少ないので」


「じゃあ、怖いのに頼んだのか」


「はい」


「無理してないか」


「少ししています」


 はつかは真面目に言った。


「でも、自分で少し無理を選ぶのは、悪くない気がします」


 運ばれてきたレモネードを、彼女は両手で包むように持った。

 一口飲む。

 酸っぱさに、ほんの少し目を細めた。


「どう?」


 リョウが聞く。


「……好きかどうかは、まだ保留です」


「未定域だな」


「はい」


 はつかは、小さく笑った。


「未定域です」


     *


 御影透子は、学校にいなかった。


 図書室の再開準備は、臨時の職員と古賀、数人の教師によって進められた。

 透子は神筆会を離反し、学校司書としての立場も調査中になっている。正式には休職扱いだが、その後戻れるかは分からない。


 リョウとはつかが彼女に会ったのは、市立図書館の近くにある小さな公園だった。


 梅雨前の曇った午後。

 公園のベンチに、透子は座っていた。

 いつものように背筋を伸ばし、膝の上に薄いファイルを置いている。

 司書の制服ではなく、黒に近い紺のコートを着ていた。校訂官の外套にも、図書館司書の服にも見えない、中途半端な服だった。


「来てくれてありがとうございます」


 透子は言った。


 はつかは、少し距離を置いて立った。


「久世さんに、一緒に来てもらいました」


「はい」


「一人で会うのは、まだ怖いので」


「当然です」


 透子は、ファイルに視線を落とした。


「怖いと思えるなら、その方がいい」


 はつかは、少し眉を寄せた。


「また、そうやって自分を罰する言い方をします」


 透子は黙った。


 リョウは、二人の間に立たないように少し離れた。

 これは、はつかの会話だった。


 透子はファイルを開いた。


 中には、一枚の栞が入っていた。

 薄い灰色の栞。御影直の名が記されている。


「直の記録です」


 透子は言った。


「閉架ではなく、開いた形で持っています。完全な記録ではありません。彼が戻ったわけでもない。でも、もう私一人の閉架にはしません」


 はつかは、その栞を見つめた。


「見せてくれるんですか」


「今すぐ読ませるつもりはありません。あなたに背負わせるものではないので」


「では、なぜ」


「閉じたままではないと、伝えたかった」


 透子の声が少しだけ揺れる。


「私は、あなたをまだ守りたいと思っています。ただ、その言葉を以前と同じ意味で使う資格はない」


 はつかは、長く沈黙した。


 風が通り、木の葉が擦れる。

 遠くで子どもが遊ぶ声がした。


 やがて、はつかは言った。


「あなたを、まだ許せるとは言えません」


「はい」


「閉じられそうになったことを、私は忘れません」


「はい」


「でも、叔母だった時間まで、全部偽物だとは思いたくありません」


 透子の表情が崩れかけた。


 彼女は、それを必死に抑えるように目を伏せる。


「それで十分です」


 声が低くなる。


「十分すぎます」


 はつかは、ベンチの横に立ったまま言った。


「私は、次に会うかどうかも、その時に決めます」


「はい」


「今日は、会うと決めました」


「はい」


「お茶は、まだ一緒に飲めません」


「はい」


「でも、いつか飲むかどうかは、未定にします」


 透子は、栞をファイルへ戻した。


「未定は、閉架よりずっと難しいですね」


「はい」


 はつかは少しだけ笑った。


「私も、練習中です」


     *


 リョウが新しい原稿を母に見せたのは、終章が近づいていると自分でも分かった夜だった。


 食卓の上には、印刷した数枚の紙が置かれている。


 久世真琴は、その紙を前にして、赤ペンを持っていなかった。


 以前なら、彼女は自然に赤字を入れただろう。

 誤字、言い回し、視点のぶれ。

 悪気はなかった。編集者として、校正者として、良くするために当たり前のことをしていた。

 けれど、リョウはそれが怖かった。


 読まれることは、直されることだった。

 直されることは、自分の内側を触られることだった。


 真琴は、紙に触れる前に聞いた。


「読むだけにする?」


 リョウは顔を上げる。


「え?」


「それとも、感想を言っていい?」


 その問いは、短かった。


 でも、リョウの胸の奥に静かに落ちた。


 読んで、勝手に直すのではない。

 どう読まれるかを、先に聞く。


 リョウは、しばらく紙を見つめた。


「……今日は、読むだけ」


「分かった」


「でも、明日、感想を聞くかもしれない」


「分かった」


「赤字は」


「入れない」


「絶対?」


「入れない。必要なら、あなたが頼んだ時に」


 リョウは、少しだけ笑った。


「ありがとう」


 真琴は紙を手に取った。


「読むね」


 その一言だけで、リョウは席を立たずにいられた。


 父は台所で麦茶を注ぎながら、ちらりとこちらを見ている。

 何も言わない。

 ただ、食卓にもう一つグラスを置いた。


 その距離が、今はありがたかった。


     *


 異典層では、王都リヴェリスの水がまだ揺れていた。


 ミレシアの公示から、王都は静かではなくなった。

 王家と神筆会の密約について、噂と怒りと不安が水路を流れている。

 避難路記録の再検証を恐れる者もいる。

 王家を批判する声もある。

 神筆会に救われた家々からは、すべてを否定するなという訴えも出ている。


 ミレシアは、それらを聞いていた。


 公示の間で、彼女は毎朝、上がってくる証言を読む。

 母セレナの名が出るたびに胸が痛む。

 父王オルディス三世は、以前より老けて見える。だが、彼もまた署名する。

 責任を一人の娘に押しつけないために。


「殿下」


 水門管理官が、不安そうに言った。


「このままでは、王都が揺れ続けます」


 ミレシアは、窓の外の水路を見た。


 水面には、小舟が行き交っている。

 以前より遅い。

 人々は互いの顔色をうかがい、時々声を荒げる。

 それでも、水は流れている。


「安定とは、何も揺れないことではありません」


 彼女は言った。


「揺れた時に、沈まない水路を作ることです」


 王杖アステリアの先に、青い光が宿る。


 それは、救われる姫の光ではなかった。

 問われ続ける統治者の光だった。


     *


 ファンタは、リヴェルナ北門の外で、旅人に呼び止められた。


「騎士様、こちらの道で合っていますか」


 以前の彼なら、すぐに地図を見て、あるいは剣を担いで「任せろ」と言っただろう。

 今も、そう言いかけた。


 けれど、隣でカインが杖を鳴らした。


 ファンタは、言葉を飲み込む。


「どこへ行きたいんですか」


 旅人は少し驚いた顔をした。


「え?」


「何をしてほしい。何をされたくない」


 ファンタは、少しぎこちなく聞いた。


「護衛が必要なのか、道案内だけでいいのか、荷物を運んでほしいのか。それとも、余計な同行は嫌なのか」


 旅人は戸惑いながらも答えた。


「道だけ分かれば大丈夫です。急いでいるので」


「分かった」


 ファンタは、カインを見る。


「カイン」


「北の旧橋はまだ不安定だ。東の水車道を通れ。遠回りだが安全だ」


 カインは地図に赤い紐を結び、旅人へ渡した。


「この紐の印を辿れ。途中で痛みが出たら、無理に進まず水車小屋で休め」


「ありがとうございます」


 旅人が去ったあと、ファンタは少しだけ照れたように頭をかいた。


「聞くのって、難しいな」


「剣を抜くよりは簡単だ」


「本当に?」


「お前の場合は、難しいかもしれない」


「そこは励ましてくれ」


「必要なら励ます」


「今必要」


「よく聞けた」


 カインが淡々と言う。


 ファンタは、少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


「調子に乗るな」


「早いな」


 カインは、杖に体重を預けた。


 左脚には、まだ補助具がある。

 歩き方も以前とは違う。長距離の測路には休憩が必要になった。痛みが強い日もある。

 けれど彼は、地図を描くことをやめなかった。


「ファンタ」


「何?」


「俺は、しばらく王都の復旧測路を手伝う。その後、北の未踏路へ行く」


 ファンタの顔が止まる。


「北の?」


「自分の目的で測りたい場所がある。お前の任務とは関係ない」


「……そっか」


 ファンタは、少し寂しそうな顔をした。


 それを隠すのが下手だった。


 カインは言った。


「止めるなよ」


「止めない」


「寂しい顔をするな」


「それは、少しはする」


「面倒だな」


「だって、寂しいし」


 カインは呆れたように息を吐いた。


「寂しがるなとは言っていない。寂しさで俺の行き先を決めるなと言っている」


「分かってる」


 ファンタは頷いた。


「君が行くなら、見送る。必要なら、迎えにも行く。でも、勝手に道は決めない」


「それでいい」


 カインは、新しい地図の端に赤い紐を結んだ。


 それは、ファンタの帰り道ではない。

 カイン自身の行き先を示す印だった。


     *


 ジアは、新しい術式帳を作った。


 古い術式帳は、相互署名の時に一部が変質し、表紙の文字が読めなくなっていた。

 新しい帳面は、生成りの革表紙で、留め具に小さな白い翼の飾りがついている。


 表紙に書かれている名は、一つだけ。


 ジア。


 家名はない。


 彼女はそれを指でなぞった。


「やっぱり、少し寂しいです」


 隣でファンタが聞く。


「家名?」


「はい。探すのをやめたわけではありません。自分の欠けを、欠けではないと言い張るつもりもないです」


 ジアは、術式帳を開く。


 最初の頁には、《仮記述》の基本術式が書かれている。

 その余白には、小さく「隣接者、廻宵はつか」と署名されていた。


「でも、家名がないと私は不完全だ、とは書きません」


 ジアは微笑んだ。


「今の私は、ジアです。欠けたまま、術式を作ります」


 ファンタは頷いた。


「いい名前だと思う」


「短いですけど」


「短くても、君の名前だろ」


 ジアは、少しだけ照れたように笑った。


「はい」


     *


 セヴラン=グリフは、神筆会残党の処理に追われていた。


 主筆アレフが消え、唯一正典計画が破綻した後、神筆会は一枚岩ではなくなった。

 正典化を続けようとする者。

 責任を逃れようとする者。

 過去の改稿記録を隠そうとする者。

 自分たちもまた主筆に利用されていたと訴える者。


 その混乱の中で、セヴランは筆槍グラン・スクリプトを持って立っている。


 彼は主人公側に加わったわけではない。

 ファンタたちと肩を並べて旅をすることもない。

 神筆会の騎士であった過去を、簡単に脱ぐこともできない。


 ただ、もう主筆の筋書き通りには動かない。


 ある日、ファンタは王都の記述院前でセヴランと会った。


 互いに、少し距離を置いて立つ。


「残党処理ですか」


 ファンタが聞く。


「そうだ」


「大変そうですね」


「君に同情される筋合いはない」


「同情じゃなくて、感想です」


「なら不要だ」


「相変わらずですね」


「君もな」


 二人は、短い沈黙を挟んだ。


 セヴランは、手に持っていた封筒を見た。

 そこには、ヴァルダ外縁区改稿前記録、と記されている。


「いつか」


 彼は言った。


「これを、自分の口で語る」


 ファンタは何も言わなかった。


「英雄としてではない。正文の騎士としてでもない。橋を落とした者として」


「聞く人は、怒るかもしれません」


「だろうな」


「許されないかもしれません」


「そのために語るわけではない」


 セヴランは封筒を懐へしまった。


「次に会う時、剣を向けるかもしれない」


 ファンタは彼を見る。


「はい」


「だが、その理由は私が決める」


 その言葉に、ファンタは少しだけ笑った。


「それなら、僕も自分で理由を決めます」


「そうしろ」


 セヴランは背を向ける。


 味方ではない。

 敵でもない。

 だが、主筆の筆で書かれた結末からは、少しだけ外れた場所を歩き始めている。


     *


 未定域リベルには、風がなかった。


 けれど、頁はめくれた。


 黒でも白でもない薄い灰の空間に、いくつもの台が浮かんでいる。

 そこには、名前、未定、保留、照合中、異議あり、眠る、戻る、残る、まだ選ばない、といった札が置かれていた。


 レム=ネグラは、その一つの前に立っている。


 黒い頁に、名前を一つずつ書いていた。


 ユノ。

 田辺小夜子、記録参照。

 名のない少女たち、未定。

 未詳測路士、照合中。

 澪、栞。

 ミラ、栞。

 御影直、開放目録参照。

 ヴァルダ外縁区、証言待機。


 書くたびに、黒い文字片が小さく震える。


 それは救済ではない。

 名前を書いたからといって、苦しみが終わるわけではない。

 戻れる者ばかりではない。

 戻らないことを選ぶ者もいる。

 言葉を持たないまま、ずっと保留にいる者もいるかもしれない。


 それでも、ひとまとめにはしない。


 レムの背後に、いくつもの黒稿体がいる。

 彼らはもう、全員が同じ方向を向いていない。

 それが、以前のレムなら不安だった。

 群れがばらばらになることは、力を失うことに見えた。


 今は違う。


「私は、君たちの総意ではない」


 レムは、誰にともなく言った。


「だが、君たちが別々の声でいる場所を守る」


 赤い髪留めの少女が、黒い頁の端に座っている。

 ユノは、まだ何も話さない。

 けれど、自分の名前の横に小さな丸を描いた。


 レムは、それを見て少し眉をひそめる。


「落書きか」


 少女は答えない。


「……好きにしろ」


 黒い頁に、初めて名前以外の印が残った。


     *


 綴原高校図書室が再開したのは、梅雨入り前の曇った日だった。


 朝の空は白く、窓ガラスには薄い水滴がついている。

 図書室の扉には、新しい掲示が貼られていた。


 図書室再開のお知らせ。

 一部資料は点検中のため利用不可。

 閉架資料の閲覧申請は、当面の間、職員確認の上で受付。


 いつもの図書室に戻ったようで、よく見ると少し違う。


 書架の並びが微妙に変わっている。

 カウンターの奥には、御影透子が使っていた席が空いたまま残っている。

 新しい職員はまだ慣れておらず、貸出端末の操作に手間取っている。

 閉架書庫の扉には、新しい鍵と、「確認保留資料あり」の札がかかっている。


 はつかは、図書室の窓際に立っていた。


 リョウが入ってくると、彼女は振り返った。


「おはようございます」


「おはよう」


「今日は、少し湿っていますね」


「梅雨前だからな」


「私は、この湿った匂いが嫌いではないかもしれません」


「また保留?」


「少し好き、くらいです」


「進歩だ」


「はい」


 はつかは、少し誇らしそうに頷いた。


 リョウは、いつもの閲覧机へ向かった。


 鞄から、新しいノートを取り出す。


 黒ではない。

 深い紺色のノートだった。

 表紙には何も書かれていない。


 リョウは椅子に座り、ノートを開いた。


 一頁目。


 真っ白な紙。


 以前の彼なら、ここをしばらく白紙のままにした。

 題名を決めるのが怖かった。

 題名をつければ、物語が何かになってしまう。

 何かになれば、読まれる。

 読まれれば、違うと言われるかもしれない。

 直されるかもしれない。

 笑われるかもしれない。

 誰かに勝手に使われるかもしれない。


 でも、白紙のままにしても、逃げたことにはならなかった。


 リョウはペンを取った。


 ゆっくりと、題名を書く。


 アヴァターラ


 文字を書き終えた瞬間、ほんの少し手が震えた。


 隣から、はつかが覗き込む。


「題名から書くんですね」


 リョウは、少し迷ってから答えた。


「今回は、逃げないように」


「題名を書くと、逃げないことになるんですか」


「少なくとも、俺には」


「なるほど」


 はつかは、真面目に頷いた。


「では、見届けます」


「怖いこと言うな」


「怖くありません。見届けるだけです」


「それが怖いんだよ」


 その時、図書室の扉が開いた。


 杖の音が、床に小さく響く。


 カイが入ってきた。


 制服姿。

 左脚には補助具。

 右手には杖。

 歩く速度はゆっくりだが、顔はいつものように少し得意げだった。


「おー、やってる?」


 リョウは反射的にノートを閉じかけた。


 その手を、はつかが無言で押さえた。


「……廻宵さん」


「はい」


「早い」


「必要だと思いました」


 カイがそれを見て笑った。


「ほら、また一人で決めようとしてる」


「閉じようとしただけだ」


「読ませるかどうかを、俺に聞く前に?」


 リョウは言葉に詰まった。


 カイは、杖をつきながら机のそばまで来る。

 椅子に座る時、少し顔をしかめた。

 リョウが手を出しかけると、カイがちらっと見る。


「今はいい」


「分かった」


「よし」


 カイは椅子に座り、ノートを覗き込んだ。


「で、俺に読ませる気は?」


 リョウは、ノートの一頁目を見る。


 アヴァターラ。


 その文字の下は、まだ白紙だ。


 怖い。


 やはり、怖い。


 カイに読まれること。

 はつかに読まれること。

 自分の内側が、誰かの言葉で返ってくること。


 でも、それはもう、勝手に投稿されることとは違う。

 赤字でいきなり直されることとも違う。

 誰かが自分の代わりに結末を決めることとも違う。


 リョウは息を吐いた。


「読むかどうか、聞いてからにする」


「今聞いてる」


「じゃあ……最初の一文だけ」


「刻むねえ」


「うるさい」


「でも、いいよ。最初の一文」


 はつかが隣で、静かに見ている。


 リョウはノートを開き直した。


 ペン先を白紙へ置く。


 遠くで、図書室の新しい職員が貸出端末に手間取っている声がした。

 窓の外では、雨が降り始めていた。

 廊下からは、怜奈が誰かに「その噂、誰から聞いたかも教えて」と詰め寄る声が聞こえる。

 放送室の方では、湊が修理された機材のテストをしているのか、短いチャイムが鳴った。


 病室ではなくなっても、カイの杖の音がここにある。

 市役所では、誠司が確認保留の書類に目を通しているだろう。

 どこかで真琴は、感想を言うかどうかをリョウに聞く準備をしているかもしれない。

 透子は、直の栞を閉じないまま机に置いている。

 異典層では、ファンタが剣を肩に乗せ、誰かの助けに走る前に「何をしてほしい」と聞いている。

 カインは、新しい地図に赤い紐を結んでいる。

 ジアは、家名のない術式帳に「ジア」と署名している。

 ミレシアは、反対意見で赤くなった公示文へ目を通している。

 セヴランは、ヴァルダの記録を開く日を選べずに、それでも封筒を手放さずにいる。

 レムは、未定域リベルで黒い頁に名前を一つずつ書いている。


 誰も、完全には救われていない。


 誰も、元通りではない。


 それでも、それぞれの場所で、頁は開いたままだった。


 リョウは、最初の一文を書いた。


 これは、俺ひとりの物語ではない。


 書き終えた瞬間、カイが覗き込む。


「お」


「何だよ」


「いいじゃん」


「軽いな」


「最初の感想は軽い方がいいだろ。重いのは後で言う」


「後で言うのか」


「言う。許可取ってから」


 はつかが、ノートの文字を見つめる。


「題名と、最初の一文が並びましたね」


「うん」


「ここから先は?」


 リョウは、白紙の続きへ目を落とした。


 まだ何も書かれていない。

 怖いほど広い余白がある。


 でも、今は少しだけ分かる。


 そこは、一人で埋める場所ではない。


「ここから先は」


 リョウは言った。


「聞きながら書く」


 カイが笑った。


「じゃあ、俺も文句言いながら読む」


「怒りながら?」


「まだ怒ってるからな」


「うん」


「でも、読む」


「うん」


 はつかが静かに頷く。


「私も、読みます。分からないところは、分からないと言います」


「手厳しいな」


「必要です」


「だろうな」


 雨音が少し強くなった。


 図書室の窓に、水滴がいくつも走る。

 その向こうで、校庭の色が滲んでいる。


 物語は終わる。


 だが、世界は校了されない。

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