表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/20

第18章 この先を、ひとりの書き手が決めることはできない

 白い光は、熱くなかった。


 冷たくもなかった。


 ただ、差が消えていく。


 綴原高校図書室の本棚は、背表紙の色を失った。

 赤いラベルも、青い分類シールも、古い本に染みついた茶色のくすみも消え、すべてが同じ白い背表紙へ整えられていく。

 貸出カウンターの木目も、閲覧机についた小さな傷も、誰かが消しゴムでこすった跡も、白い平面へ均されていった。


 星見校典塔の天球儀からは、星名が抜け落ちた。


 アルケス。

 ヴェイル。

 北の針星。

 旅人が道を決めるために使ってきた名が、ひとつずつ消えていく。星はまだ光っている。だが、名を持たない光点は、どこへ進むべきかを示さない。ただ均等に並び、整った天井模様へ変わる。


 黒い書庫では、黒稿体たちの輪郭が薄くなった。


 怒りで歪んだ肩。

 まだ名前を持たない顔。

 戻りたいと伸ばした手。

 眠りたいと丸まった背。

 それらの違いが、白い校正液を流し込まれるように均されていく。

 黒であることすら許されず、彼らは「余白」というひとつの役割へまとめられようとしていた。


 王都リヴェリスの水路からは、青が抜けた。


 水は透明になった。

 透明すぎて、そこに水があるのかさえ分からない。人々の声も、「国民」という一語にまとめられ、商人の怒号も、子どもの泣き声も、水門係の叫びも、祭りの歌も、同じ静かなざわめきへ圧縮されていく。


 綴原総合病院の廊下では、カイの病室から聞こえていたモニター音が整えられていた。


 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。


 間隔の揺れが消える。

 呼吸の乱れも、痛みで止まる間も、芽衣が椅子を引く音も、看護師の足音も、均一な拍子へ変わっていく。


 余白門の中心で、主筆アレフは静かに立っていた。


 彼の周囲だけが、白い光に抗わない。

 むしろ、光の源に見えた。


「最終校了は、破壊ではありません」


 アレフの声が響く。


「整理です。記録を読みやすくし、役割を明確にし、矛盾を減らす。苦痛の少ない形へ、世界を整える」


 その言葉と同時に、空中へ名前が浮かび上がった。


 久世遼。


 文字が揺れる。


 そこへ白い線が入り、墨を拭き取るように姓と名が消えていく。


 正典主人公。


「っ……」


 リョウは、自分の胸の奥を掴まれたような感覚に息を呑んだ。


 次に、ファンタ=レイヴァンの名前が浮かぶ。


 それも同じ語へ変換される。


 正典主人公。


 リョウとファンタの名が、同じ白い枠の中へ引き寄せられる。

 二人の間に細い糸が伸びた。照応の糸ではない。もっと硬く、もっと無機質な縫合糸。二つの存在を、一人の役へ縫いつけるための線だった。


 相馬カイ。


 親友。


 病室の映像の中で、カイの顔が歪んだ。


『おい』


 彼の声に、ノイズが入る。


『俺の名前を、勝手に短くすんな』


 カイの名の周囲で白い文字が震えた。

 親友。主人公を支える者。事故と和解を通じて成長を促す者。許す者。


『ふざけんな』


 カイは、ベッドの上で身体を起こそうとして、痛みに顔をしかめた。


 芽衣の声がすぐ横から飛ぶ。


「動かない!」


『動いてない! ちょっと怒っただけ!』


「怒るのも肋骨に響くの!」


『じゃあ響かせる! 俺の名前の話だろ!』


 湊が放送卓の前で、必死に波形を押さえる。


「相馬くんの声、役割変換に抵抗してます。ノイズが増えています。でも、均されかけてる」


 怜奈が横で叫ぶ。


「均させないで。今の小言も録って」


「小言?」


「芽衣さんの声も、カイくんの位置情報になるでしょ!」


「そうです。録ります」


「ちょっと待って、私の小言まで記録するの?」


 芽衣の声が入る。


『姉ちゃん、今は諦めろ。俺の環境音だから』


「環境音って言うな!」


 そのやり取りの間にも、白い文字はカイの名前を「親友」へ押し縮めようとする。


 カイン=ローデル。


 親友/補佐。


 カインは、測路杖を床へ突いた。


「役割名は便利だが、道標にはならない」


 その声は冷静だった。

 だが、杖を握る手は白くなっている。


「誰の道か分からなくなる」


 彼の足元に、補佐という文字が絡みつく。

 負傷した脚を支える杖まで、主人公のための道具として定義しようとする白い線。


 カインは杖先でそれを押し潰した。


「俺は地図に『補佐』とは書かない。名前を書く。地名を書く。分岐を書く。誰が、どこで、どう迷ったかを書く」


 廻宵はつか。


 ヒロイン/記述者。


 はつかの名前が白く揺れた。

 廻宵という姓が消えかける。

 はつか、という音も、役割の中へ溶けていく。


 はつかは胸元の《余白校訂録》を抱きしめた。


「嫌です」


 小さな声だった。


 でも、聞こえた。


「私は、役割として残りたいわけではありません」


 ジア。


 ヒロイン/記述者。


 ジアの短い名前も、白い枠の中で薄くなる。

 家名がないことを補うように、正典記述者という美しい肩書きが付与されようとする。


 ジアは白い翼型の髪飾りへ触れた。


「名前が短いからといって、役割で補わないでください」


 ミレシア=リヴェルナ。


 王統の証人。


 王杖アステリアが震える。

 リヴェルナの水路から青が失われるたび、彼女の名も王統の機能へ縮められていく。


 レム=ネグラ。


 最終悪。


 レムは笑わなかった。


 彼の外套にまとわりつく黒い文字片が、白い光に削られていく。

 余白の王、未完王、最終悪。

 どれも彼を一つの役へ閉じる名だった。


 セヴラン=グリフ。


 正文の騎士。


 筆槍グラン・スクリプトの白い穂先が、主筆の光に共鳴する。

 セヴランは歯を食いしばった。

 まだ神筆会の騎士だ。

 だが、彼の結末まで主筆に書かせるつもりはない。


 全員の名が、役割へ変換されていく。


 リョウは、胸の奥から熱いものが込み上げるのを感じた。


 怒りではない。

 恐怖でもある。

 だが、それ以上に、自分がこれまでやってきたことを真正面から見せられている感覚だった。


 誰かを「主人公」と見た。

 誰かを「親友」と見た。

 誰かを「守られる人」と見た。

 誰かを「悪」と見た。

 自分の物語に必要な役として。


 今、それを自分がやられている。


 久世遼が、正典主人公へ書き換えられる。


「……嫌だ」


 リョウは、黒いノートを握った。


 指先が震える。


「俺は、俺の名前を手放したくない」


 アレフが彼を見る。


「名前は保存されます。役割の中に、意味として」


「意味じゃない」


 リョウは言った。


「名前だ」


 その瞬間、カイの声が病室から割り込んだ。


『そうだよ。意味とか役割とか、あとで勝手につけんな。名前が先だろ』


 カインも続く。


「地図でも同じだ。先に役割を書くと、道を誤る」


 リョウは、二人の声を聞いた。


 親友役にされかけている二人が、最初に怒った。

 それは当然だったのかもしれない。


 二人はずっと、主人公を支える者として処理されかけてきた。

 傷も、怒りも、回復も、主人公たちの成長材料にされかけた。

 だからこそ、名前を短くされることに一番早く気づいた。


 リョウは息を吸った。


 そして、《アヴァターラ断章》を開いた。


     *


 断章の頁は、白かった。


 以前は、触れた瞬間に文字が浮かび上がった。

 リョウの怒り、後悔、願望、逃避。

 それらを読み取るように、断章は彼の文章を出来事へ近づけた。


 今は違う。


 真っ白な頁が、待っている。


 何でも書けるように見えた。


 カイが事故に遭わなかったこと。

 カインが地竜に傷つけられなかったこと。

 はつかが安定すること。

 ジアが完全になること。

 ファンタが英雄の役割から自由になること。

 ミレシアの国が混乱しないこと。

 レムの黒稿体が消されないこと。

 セヴランがヴァルダで全員を救ったこと。

 アレフが止まること。


 全部、書けるような気がした。


 白紙は誘惑する。


 自分が正しく書けば、今度こそ誰も傷つかないのではないか。

 自分が責任を持って、最良の結末を選べばいいのではないか。

 あの時のような怒りではなく、救いたい気持ちで書くなら許されるのではないか。


 リョウは、ペンを握った。


 手が震えている。


 隣では、はつかの名前が薄くなっている。

 遠くでは、カイの声がノイズに押し込められている。

 ファンタの身体には正典主人公の白い線が巻きつき、ジアの署名はヒロイン/記述者の枠へ吸われかけている。


 早く書け。


 世界がそう言っている気がした。


 何かを決めろ。

 誰かを救え。

 正しい文章を書け。


 リョウは、ペン先を頁へ近づけた。


 その時、カイの声が聞こえた。


『リョウ』


 ノイズ越しの声。


『お前、また一人で決めようとしてないよな』


 痛いところを突かれた。


 リョウは、笑いそうになって、泣きそうになった。


「……してた」


『正直かよ』


「今、すごく書きたかった」


『何を』


「全部、うまくいく結末」


 カイは、一瞬黙った。


 それから、短く言った。


『欲しいな』


「うん」


『でも、俺に聞けよ』


 リョウは目を閉じた。


「うん」


 ファンタの声も、別の場所から届いた。


「リョウ」


 リョウは顔を上げる。


 ファンタは、白い縫合線に身体を引かれながらも、大剣を握っていた。


「僕の結末も、君一人で書かないでくれ」


「分かってる」


「本当に?」


「今、分かった」


「遅い」


「よく言われる」


 ファンタは、少しだけ笑った。


 リョウは、白紙へ向き直る。


 結末を書かない。

 救済を書かない。

 命令を書かない。


 書くのは、放棄。


 だが、逃げる放棄ではない。


 自分一人が決める権利を手放し、他の声が入り込む余白を開くための文章。


 リョウは、震える手で書いた。


 この先を、ひとりの書き手が決めることはできない。


 文字は、黒ではなかった。


 最初は青白く光り、次に緑青、金、黒、赤、灰色、無数の細い色を帯びた。

 それは完成文ではなく、余白を開くための裂け目のように頁へ刻まれた。


 白紙の世界が、わずかに止まる。


 アレフは、それを見ていた。


 眉ひとつ動かさない。

 だが、目の奥で何かが冷たく揺れた。


「放棄は責任ではありません」


 彼は言った。


「あなたが決めないなら、誰が決めるのです」


 その問いは、鋭かった。


 リョウはペンを握ったまま、顔を上げた。


「俺じゃない」


 アレフの目が細くなる。


 リョウは続けた。


「俺だけじゃない」


 その瞬間、断章の頁に空白が生まれた。


 書かれていない場所。

 未完成の余白。

 そこへ、他の声が入れるようになった。


     *


 最初に動いたのは、ファンタだった。


 白い縫合線が、リョウとファンタの間で強く光る。


 正典主人公。

 正典主人公。


 二人の名が同じ役へ重ねられようとしていた。


 リョウの視界に、ファンタの記憶が流れ込む。

 ファンタの視界に、リョウの後悔が流れ込む。

 過去のように、怒りや焦りが互いの輪郭を侵食しようとする。


 ファンタは大剣を抜いた。


「今度は、全部斬らない」


 彼は言った。


 白い線が、彼の腕へ絡みつく。

 斬れば、照応ごと切れるかもしれない。

 斬らなければ、一人に縫い合わされる。


 ファンタは、深く息を吸った。


 カインが重層路図の上で叫ぶ。


「線を見ろ。全部同じではない」


「分かってる!」


「分かっていない声だ」


「今分かる!」


 ファンタは剣を構え直した。


 線は三種類あった。


 ひとつは、断章が作った照応の細い光。

 危険だが、声を届け合える道でもある。


 ひとつは、リョウの怒りがかつて流れ込んだ濁った線。

 それは古い傷のように、まだ二人の間に残っている。


 もうひとつは、アレフの白い縫合線。

 二人を正典主人公へまとめるための線。


 ファンタは、濁った線と白い縫合線へ刃を入れた。


 紙を裂くような音がした。


 リョウの胸から、重いものが引き抜かれる感覚が走る。

 怒りを流し込んだ時の自分。

 ファンタを理想の主人公として見た自分。

 それが、消えるのではなく、切り離される。


 しかし、細い照応の光は残った。


 ファンタは剣を下ろした。


「僕は君じゃない。君も僕じゃない」


 彼は、リョウを見た。


「でも、声が届く距離まで全部斬る必要はない」


 リョウは、喉の奥が熱くなるのを感じた。


「ああ」


 彼は言った。


「俺も、あんたを俺の主人公にしない」


 ファンタの表情が少しだけ和らぐ。


 リョウは続けた。


「でも、聞こえたら返事はする」


「なら、僕も返す」


「怒ってても?」


「怒ってても」


「信用してなくても?」


「信用してなくても」


 ファンタは、少し考えてから付け加えた。


「必要なら、また文句を言う」


「それは、もう分かってる」


 二人の間に残った照応線が、細く鳴った。


 作者と主人公ではない。

 現実側と異世界側でもない。

 一人の正典主人公でもない。


 別人として、必要な時に声を届け合える照応者。


 断章の余白へ、二つの名前が別々に刻まれた。


 久世リョウ。

 ファンタ=レイヴァン。


     *


 白い世界は、すぐに別の場所を押し潰そうとした。


 カイの病室のモニター音が、また均一化される。


 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。


 それは生きている音ではなく、拍子記号のようだった。

 カイの息継ぎも、芽衣の小言も、湊の機材ノイズも、怜奈が横から訂正する声も、すべて「親友の音声記録」へ整えられようとしている。


 カイはマイクへ顔を近づけた。


『音羽』


「はい」


『全部録れ。俺が噛んだところも、息切れしたところも、姉ちゃんが怒ったところも』


「もう録っています」


『さすが』


「ただ、今の褒め方は少し軽いので録音から消したいです」


『消すなって今言っただろ』


「冗談です」


「湊くん、冗談下手」


 怜奈の声が入る。


「岸本さん、それも入ります」


「入れていいよ。今の私の証言だから」


 芽衣が深く息を吐いた。


「本当に全部残すのね」


『残す』


 カイの声が、急に真面目になる。


『俺は、綺麗な親友役じゃない』


 白い文字が震える。


『痛いし、怖いし、まだ怒ってる』


 病室のモニター音が乱れた。

 芽衣が息を呑む。

 カイは、胸の痛みに耐えるように一度言葉を切った。


 その間も、湊は録音を止めなかった。


 痛みで止まる間。

 それこそが、音声錨になる。


『その声ごと残せ』


 カイの声が、余白門の中心へ届いた。


 均一だったモニター音が、少しだけ不規則に戻る。

 病室の空気が、白い役割名から外れる。


 カインは、その音を重層路図へ刻んだ。


 彼の測路杖が、白くなりかけた床を叩く。


 一本化されていた道が、震えた。


「戻る道」


 カインは言った。


 灰緑色の線が一本、余白門の端から現実層へ伸びる。


「進む道」


 別の線が、星見校典塔の奥へ伸びる。


「途中で休む道」


 黒い書庫と未定域の間に、小さな環状路ができる。


「別の場所へ向かう道」


 リヴェリスの水路から、まだ地図にない細い運河が開く。


「まだ選べない者のための保留道」


 その線は、どこへもつながらなかった。

 ただ、消えずにそこに残る小さな場所を示した。


 カインは杖を握り直した。


「道は、歩く者より先に結論を出すものじゃない」


 彼の左脚が震えている。

 痛みがある。

 それでも、彼は立っている。


「俺は道を作る。だが、行き先は歩く者が決める」


 カイの音声錨が、その線へ絡む。

 声の揺らぎが、道の位置を固定する。


 ピッ。

 カイの呼吸。

 芽衣の椅子を引く音。

 湊のキー操作。

 怜奈の「今の残して」の声。

 病院の廊下の足音。


 綺麗ではない音が、白紙の世界に穴を開けた。


 余白門に、複数の分岐が刻まれる。


     *


 はつかとジアの名前は、まだ白い枠に引き寄せられていた。


 ヒロイン/記述者。


 二人で一人。

 欠けを埋め、安定し、正典にふさわしい記述者になる。


 それは、最も滑らかな救いの形だった。

 はつかの不安定さも、ジアの欠落も、統合されれば消える。


 ジアは、白い頁の前に立った。


 手には術式帳。

 その表紙には、まだ「ジア」とだけ書かれている。


 はつかは隣に立つ。


 《余白校訂録》を開き、緑青色の光を灯す。


「ジアさん」


「はい」


「まだ、怖いですか」


「怖いです」


 ジアは正直に言った。


「完全になれると言われたら、今でも揺れます」


「私も、安定できると言われたら、揺れます」


「では、揺れたまま書きましょう」


「はい」


 二人は、同時に白い頁へ筆を下ろした。


 ジアは、自分の名前を書いた。


 ジア。


 家名はない。

 失われたものを無理に補わない。


 はつかは、自分の名前を書いた。


 廻宵はつか。


 出生原資料がなくても。

 半年前に挿入された存在でも。

 自分で選んだ署名として。


 白い枠が二つの名前を飲み込もうとする。


 ジアは、その下にもう一つの名を書いた。


 隣接者、廻宵はつか。


 はつかは、自分の署名の下に書いた。


 隣接者、ジア。


 所有ではない。

 原因だけでもない。

 欠落でも、材料でもない。


 互いを互いとして認めるための、相互署名。


 ジアが言った。


「私は、あなたを私の欠落として記録しません」


 はつかが続ける。


「私は、あなたを私の原因としてだけ扱いません」


 二つの署名が光った。


 淡い金色の《仮記述》が、正典に存在しない選択肢へ仮の形を与える。

 緑青色の《余白校訂》が、矛盾を抱えた存在を削除も統合もせず保留する。


 二つの術式は、今度こそ完全に結合した。


 余白門に刻まれたカインの分岐道へ、はつかとジアの術式が触れる。

 まだ選べない者のための保留道が、消えずに固定される。

 名前だけを望む者へ、仮の記入欄が生まれる。

 戻る者と戻らない者の間に、互いを潰さない緩衝地帯が生まれる。


 ジアが少しふらついた。


 ファンタが反射的に手を伸ばしかけ、途中で止める。


「支えていい?」


 ジアは、こんな時なのに少し笑った。


「はい。今はお願いします」


 ファンタは彼女を支えた。


 はつかも、足元が揺らいだ。


 リョウが手を伸ばす。


「支えていいか」


「はい」


 はつかは頷いた。


「ただし、私の代わりに立たないでください」


「分かってる」


「本当に?」


「最近、みんな確認が厳しい」


「必要です」


「はい」


 リョウは、はつかの肩を支えた。


 その感触は、もう借り物だけではなかった。


     *


 白い世界の奥で、王都の民衆の声が「国民」へまとめられようとしていた。


 商人、船頭、水門係、子ども、兵士、貴族、外縁区の避難民、密約の被害を受けた家、神筆会の校訂で救われた家。

 それぞれ違う声が、ひとつの「安定を望む民」へ整えられていく。


 ミレシアは王杖アステリアを掲げた。


 王杖の青は、白い光に削られかけていた。

 だが、リヴェリスの水路に、かすかに色が戻る。


「リヴェルナ王家より、公示します」


 彼女の声は、水路だけでなく、余白門の白い頁にも響いた。


 アレフが彼女を見る。


「王太女殿下。正典化の最中に公示を行えば、民に混乱が残ります」


「残します」


 ミレシアは即答した。


 王杖の先から、青い文字が水面へ流れる。


「王家は、ひとつの正史だけを国民へ強制しない」


 白い「国民」の文字に、ひびが入る。


「証言は複数保存される」


 水路のあちこちに、異なる声が浮かぶ。


「語られなかった者の名も、無効とはしない」


 黒稿体の中にいた、王都の削除記録たちが揺れた。


「ただし、証言を開く順番と方法は、民の生活を壊さぬよう公に検証される」


 ファンタは、ミレシアを見た。


 彼女は全てを一気に暴こうとしているわけではない。

 隠蔽を続けようとしているわけでもない。

 王家の権威を、唯一の物語を押しつけるためではなく、複数の証言を扱う制度を作るために使っている。


 それは、英雄譚よりずっと難しい選択だった。


 ミレシアの声が、さらに強くなる。


「真実は、隠すものではありません。けれど、ただ叩きつければよいものでもありません。王家は、聞く仕組みを作ります。異議を、証言を、失われた名を、生活の上に開く手順を」


 白い世界の中で、リヴェリスの水路に青が戻った。


 完全ではない。

 ところどころ濁っている。

 黒い文字も沈んでいる。


 だが、流れは戻った。


     *


 余白門の崩落は、周辺へ広がっていた。


 白い頁が崩れ、正典化に巻き込まれた下級神筆騎士たちが足場を失う。

 王都外縁の人々の影が、背景人物として消されかける。

 綴原高校の廊下には、名のない生徒たちの輪郭が浮かび、すぐに白へ吸われそうになっている。


 セヴラン=グリフは、その光景を見た。


 かつてのヴァルダが、脳裏をよぎる。


 橋を落とした夜。

 外縁区の叫び。

 中央区を守るために切り捨てた道。

 後に神筆会が整えた英雄譚。


 今、同じことが起きようとしている。


 消される者は、背景として処理される。

 主役ではないから、記録されない。

 名前がないから、救出順から外れる。


 セヴランは筆槍グラン・スクリプトを構えた。


 ファンタが警戒する。


「セヴラン」


「君と戦う気はない」


 セヴランは言った。


「今は」


「今は、か」


「信用するな。私はまだ、神筆会の騎士だ」


「分かってます」


 ファンタは剣を下ろさない。


 セヴランは、その警戒を当然のものとして受け止めた。


「ならば、神筆会の失敗から人を逃がす責務もある」


 彼は筆槍を地面へ突き立てた。


 空中に文字が走る。


 避難路。

 退避経路。

 名簿未登録者、通行可。

 背景人物、削除対象外。

 下級騎士、指揮系統一時解除。

 民間人優先。


 グラン・スクリプトは、戦場へ役割を書き込む槍だった。

 今、セヴランはその力を、勝敗ではなく避難路へ使っている。


 白紙化されかけた廊下に、通路が生まれる。

 王都外縁の人々がそこへ流れる。

 綴原高校の名のない生徒たちの影が、足場を得る。

 神筆会の若い騎士たちが、主筆の命令から一瞬だけ外れ、混乱しながらも民を誘導し始める。


 セヴランは小さく呟いた。


「ヴァルダで書けなかった道を、今度は書く」


 ファンタは、その横顔を見た。


 完全には信じられない。

 彼は神筆会の騎士であり、ミレシアを保護の名で縛ろうとした人物でもある。

 だが、今この道は必要だった。


「あなたがどこへ行くかは、まだ分からない」


 ファンタは言った。


「でも今、その道は必要です」


 セヴランは、ほんの一瞬だけ彼を見る。


「必要なら使え。信用は後で考えろ」


「そうします」


「良い返事だ」


 セヴランの筆槍が、白い崩落の中にさらに道を刻んだ。


     *


 余白門の黒い側では、レムが立っていた。


 彼の背後に、黒稿体たちが揺れている。


 白い正典光は、彼らを「最終悪の軍勢」へまとめようとしていた。

 戻りたい者も、眠りたい者も、名前だけを望む者も、怒りのまま留まりたい者も、すべてが主人公に倒されるべき群れへ整理されかけている。


 レムは、その白い定義を睨んだ。


「私は、君たちの総意を名乗らない」


 黒稿体たちがざわめく。


 彼は、黒い頁を開いた。


「だが、君たちの声を一つに潰させもしない」


 黒い文字片が、レムの周囲へ集まる。


「現実層へ戻りたい者は、この流れへ」


 一筋の黒い流れが、綴原市の記録施設へ向かう道に触れる。


「異典層へ戻りたい者は、こちらへ」


 別の流れが、リヴェリスと星見校典塔の地脈へ触れる。


「余白層で新しい名を得たい者は、頁を差し出せ」


 小さな黒稿体たちが、かすれた文字片を掲げる。


「静かに消えたい者は、沈黙を選べ。誰も引きずり出さない」


 黒い書庫の奥に、静かな暗がりが開く。


「言葉を持たず、まだ選べない者は、保留道へ」


 はつかとジアの術式が、そこへ緑青と金の小さな灯りを置く。


「怒りのまま留まりたい者は、私の背後へ。だが、私の声にはならなくていい」


 黒稿体たちは、ばらばらに動き始めた。


 混乱はあった。

 ぶつかる者もいる。

 戻りたいと言いながら立ち止まる者もいる。

 怒りを手放せない者もいる。


 それでも、彼らは一つの軍勢ではなくなった。


 リョウの黒いノートの近くに、小さな文字片が近づいてきた。


 赤い髪留めの少女。


 ユノ。


 前に名前を呼んだ、リョウの没原稿の少女。


 彼女は現実へ戻りたいわけではなかった。

 物語の主人公として復活したいわけでもない。

 ただ、自分の名前がもう一度消えない場所を求めているように見えた。


 リョウは、ノートを開いた。


「ユノ」


 彼は、声に出して呼んだ。


 少女の輪郭が、少しだけ濃くなる。


 レムが黒い頁を差し出した。


「名を得た余白として、記す」


 リョウは頷いた。


 レムは、黒い頁に書いた。


 ユノ。


 その名前は白紙に吸われなかった。

 現実へ戻ったわけでもない。

 異典層で新しい役を得たわけでもない。

 ただ、名を持つ余白として残った。


 レムは、しばらくその文字を見ていた。


「これで救われたと思うな」


「思ってない」


 リョウは言った。


「でも、消さない一歩にはなる」


 レムは、少しだけ鼻で笑った。


「採用された者の言う一歩は、いつも遅い」


「うん」


「だが、ゼロよりはましだ」


 その言葉は、不機嫌だった。

 けれど、拒絶ではなかった。


     *


 透子は、白くなっていく図書室のカウンターに立っていた。


 彼女の手には、閉架書庫の鍵がある。


 かつて、その鍵は閉じるためのものだった。

 危険な記録を隠す。

 不安定な存在を隔離する。

 削除できないものを閲覧不可にする。

 そうして、世界の表面を守る。


 御影直の記録も、そうして閉じた。


 決める前に、僕に聞いてほしかった。


 弟の声が、白い光の奥で揺れている。


 透子の足元に、白い文字が浮かぶ。


 校訂官《索引》。

 閉架管理者。

 削除記録保管者。


 彼女は、その文字を見下ろした。


「閉じて守ることしか、私は知らなかった」


 声は小さかった。

 それでも、カウンターの木目がわずかに色を取り戻す。


「でも、閉じたままでは、聞けない声がある」


 透子は、鍵を閉架目録へ差し込んだ。


 まだ開けない。

 完全に開けるには、準備がいる。

 開けば、痛みも混乱も出る。

 直の記録も、はつかの維持記録も、田辺小夜子の代替被害候補記録も、神筆会が閉じた現実層の削除記録も、すべて外へ出る。


 だが、鍵はもう閉じるためだけに握られていなかった。


 白い光の中に、一冊の薄い記録が浮かぶ。


 御影直。


 表紙が揺れている。

 閉じたまま、白紙化されそうになっている。


 透子は、その表紙へ手を伸ばした。


「直」


 名を呼ぶだけで、胸が痛む。


「次は、聞く」


 記録はまだ開かない。

 だが、白紙にはならなかった。


 第19章へ続くべき痛みが、そこに残った。


     *


 断章の頁には、無数の名前と声と線が差し込まれていた。


 リョウの一文。

 ファンタの剣が残した照応の距離。

 カイの音声錨。

 カインの重層路図。

 はつかとジアの相互署名。

 ミレシアの公示。

 セヴランの避難路。

 レムの分流。

 透子の閉架目録の鍵。


 それぞれは不完全だった。

 穴だらけで、危うく、白い正典光に何度も塗り潰されかけている。


 だが、ひとつではなかった。


 唯一正典は、一冊化しようとしていた。

 すべてを正しい順番、正しい役割、正しい結末へ整えようとしていた。


 その一冊化が、いま軋み始める。


 白い背表紙になっていた図書室の本に、少しずつ色が戻る。

 星見校典塔の星図に、消えた星名の一部が戻る。

 リヴェリスの水路が、透明ではなく、揺れる青を取り戻す。

 黒い書庫の黒稿体たちが、均された輪郭からばらばらの形へ戻る。

 病院のモニター音に、カイの呼吸の揺らぎが混じる。


 役割名が剥がれた。


 正典主人公の下から、久世リョウの名が戻る。

 もう一つの正典主人公の下から、ファンタ=レイヴァンの名が戻る。

 親友の下から、相馬カイ。

 親友/補佐の下から、カイン=ローデル。

 ヒロイン/記述者の下から、廻宵はつかとジア。

 王統の証人の下から、ミレシア=リヴェルナ。

 最終悪の下から、レム=ネグラ。

 正文の騎士の下から、セヴラン=グリフ。


 白い光が砕けた。


 余白門の中心で、アレフが初めてはっきりと表情を変えた。


 驚きではない。

 怒りでもない。

 痛みに似た、深い揺らぎ。


「一冊化が」


 彼は呟いた。


「破れた……」


 リョウは、荒い息をついた。


 全身が重い。

 何かを成し遂げた感覚はない。

 むしろ、何も終わっていない感覚だけが残っている。


 世界は救われていない。

 唯一正典の白い光は弱まったが、アレフはまだ立っている。

 余白門も不安定なまま。

 分岐はできた。

 だが、その分岐をどう扱うかはまだ決まっていない。


 アレフは、ゆっくりとリョウたちを見渡した。


「あなたたちは、苦痛を分散させただけです」


 その声には、怒鳴り声より重い静けさがあった。


「誰も、苦痛そのものを終わらせてはいない」


 誰も反論できなかった。


 その通りだった。


 カイの痛みは残る。

 カインの傷も残る。

 はつかの不安定さも、ジアの欠落も、ミレシアの政治的混乱も、セヴランのヴァルダも、レムの怒りも、透子の直への後悔も、何一つ消えていない。


 アレフは、両手を静かに下ろした。


「ならば、見なさい」


 余白門の奥が開く。


 黒い書庫ではない。

 白い書庫だった。


 そこには、無数の記録が並んでいた。

 整えられ、封じられ、誰にも触れられないまま保存された削除者の記憶。


 アレフが一人で抱えてきた記録。


 最初に、二つの名が浮かんだ。


 澪。

 ミラ。


 次に、薄い閉架記録。


 御影直。


 病院の記録から滲んだ名前。


 田辺小夜子。


 さらに、名のない少女たち。

 ヴァルダ外縁区。

 リヴェルナ王家密約。

 ジア分割実験。

 はつか維持記録。

 現実層改稿事故。

 神筆会が校了の名で閉じてきた、数えきれない声。


 白い書庫の奥から、紙をめくる音がした。


 アレフは言った。


「私は、それらを忘れませんでした」


 彼の声が、わずかに掠れる。


「私が覚えていなければ、二度消えるからです」


 余白門の前に、沈黙が落ちた。


 唯一正典の一冊化は破れた。

 だが、最も深い書庫は、まだ開いていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ