表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/20

第17章 唯一正典

 色が消えていく。


 最初に失われたのは、図書室の窓際に差していた夕焼けの橙だった。

 次に、星見校典塔の石壁に残っていた古い星図の青。

 リヴェリスの水路を走っていた水の緑。

 黒い書庫の闇さえも、黒であることをやめ、均一な灰へ近づいていく。


 世界は白紙へ戻されようとしていた。


 綴原高校図書室の本棚の向こうに、星見校典塔の螺旋階段が伸びている。

 教室の扉を開ければ、その先に王都リヴェリスの水路が見える。

 黒い頁の上には、綴原総合病院の白い廊下が真っ直ぐ続き、モニター音が紙をめくる音に混じっている。

 机の脚元には水が流れ、天井には天球儀が回り、棚の奥では黒稿体たちが息を潜めていた。


 余白門。


 それは、もはや門というより、すべての舞台を一冊に綴じるための巨大な背表紙だった。

 開いた頁の中心に、主筆アレフが立っている。


 彼の周囲だけは、まだ完全に色を失っていなかった。

 灰白の長衣。淡い銀の髪。乾いた湖のような目。

 怒っていない。勝ち誇ってもいない。

 ただ、長い校訂作業の最後の一行へ朱を入れる者の静けさがあった。


「最終校了の前に」


 アレフは言った。


 その声は、三層すべてに均等に届く。


「皆さんへ、完成形を提示します」


 リョウは黒いノートを抱え直した。


「完成形……?」


「苦痛を最小化した可能性です」


 アレフは答える。


「これは嘘ではありません。起こり得なかった虚構でもありません。断章と照応、改稿と余白を整理すれば、十分に成立する安定稿です」


 白い頁が開いた。


「あなた方が拒んでいるものが、ただの支配ではないことを見てください」


 その瞬間、リョウの足元が抜けた。


     *


 リョウは、綴原高校の教室にいた。


 朝だった。


 黒板横の座席表には、見慣れた名前が並んでいる。

 相馬カイ。

 久世遼。

 岸本怜奈。

 音羽湊。

 廻宵はつかの名前は、ない。


 違和感が胸を刺した。

 けれど、それより先に、教室の扉が開く。


「リョウ、今日放課後空いてる?」


 カイが入ってきた。


 制服の袖を少し雑にまくり、鞄を肩に引っかけて、いつもの顔で笑っている。

 左脚に固定具はない。

 歩き方も普通だ。

 胸を押さえる癖もない。


 健康なカイ。


 事故に遭わなかったカイ。


 リョウの喉が詰まる。


「カイ」


「何その顔。寝不足?」


 カイは机に鞄を置き、リョウの前の席へ反対向きに座った。


「例の短編さ、読ませてもらってもいい?」


 リョウは息を止めた。


「……勝手に読むんじゃないのか」


「読むわけないだろ」


 カイは、当たり前みたいに笑った。


「前にお前、嫌がってただろ。だから許可取ってる」


 その一言で、リョウの胸が裂けそうになった。


 あの時、こうだったら。


 カイが勝手に原稿を提出しなかったら。

 リョウが怒りに任せて書かなかったら。

 断章が照応しなかったら。

 地竜も、トラックも、病室も、左脚の傷もなかったら。


 カイは笑っている。

 何も壊れていない。


 放課後、リョウは図書室でカイに原稿を渡した。

 カイは真面目な顔で読んだ。時々笑い、時々眉を寄せ、読み終えると、ノートを丁寧に閉じた。


「面白い」


 彼は言った。


「でも、出すかどうかはお前が決めろよ。俺は、読めてよかったってだけ」


 古賀が通りかかり、匿名での参加方法を説明してくれる。

 音羽が放送用の紹介文を作るか相談してくる。

 岸本が「こういうの、ちゃんと出した方がいいよ」と軽く背中を押す。

 誰も、リョウの領域を踏み抜かない。


 校内短編企画で、作品は穏やかに評価された。


 大きな受賞ではない。

 熱狂でもない。

 ただ、何人かが「よかった」と言い、カイが得意そうに「だろ」と言い、リョウが少しだけ照れながら、それを受け取る。


 母の真琴も、赤字を入れずに読んでくれた。

 父の誠司も、食卓で「読んだ」とだけ言い、少し間を置いて「続きがあるなら、また読ませてくれ」と言った。


 静かな世界だった。


 誰もひどく傷つかない。

 誰も病室で震えない。

 誰も、事故を消す文章を書かない。


 リョウは、そこで泣いていた。


 泣いていることに気づいた時、カイが驚いて近づいてきた。


「おい、どうした?」


「……ごめん」


「何が?」


「ごめん」


 カイは困ったように笑った。


「何もされてないけど」


 その言葉が、さらに苦しかった。


 このカイは知らない。


 病室で、怖いと言ったカイを。

 笑うと肋骨に響くのに軽口を叩いたカイを。

 「勝手に終わらせんな」と声を届けたカイを。

 リョウを許すための装置じゃないと怒ったカイを。

 姉に怒る権利を残して、それでも自分で決めたカイを。


 全部、いない。


 事故がなかった世界は、確かに優しい。


 でも、その優しさは、今のカイが痛みの中で選んだ言葉まで消している。


 リョウは、涙を拭った。


「これは、欲しい」


 彼は正直に言った。


 目の前のカイが、首を傾げる。


「何が?」


「この世界が、欲しい。お前を傷つけなかった世界が、欲しい」


 リョウは泣きながら、首を横に振った。


「でも、俺が勝手に選んじゃ駄目だ」


 教室の景色が白く揺れる。


「今のカイが、いなかったことになる。あいつが怒ったことも、怖がったことも、自分で決めたことも。俺が楽になるために、それを消すのは違う」


 リョウは、目の前のカイを見る。


 健康で、笑っていて、何も知らない親友。


「ごめん」


 今度の謝罪は、誰に向けたものか分からなかった。


「俺は、戻りたい。でも、戻すことを俺一人で決めない」


 白い教室が割れた。


     *


 ファンタは、星見校典塔の地下にいた。


 地竜が現れる。


 だが、今度の彼は迷わなかった。


 カインの指示を聞き、地竜の進路を読み、ジアの術式で壁を補強し、ファンタは完璧な角度で剣を振るった。

 地竜の突進は逸れ、カインは一歩も前に出る必要がない。

 誰も傷つかない。

 ファンタは、王都へ戻る。


 人々が彼を称える。


 ミレシアも、カインも、ジアも、誰も彼を責めない。


「あなたは正しかった」


 カインが言う。


 左脚に傷のないカインが。

 杖を持たず、いつもの速さで隣を歩くカインが。


「お前は、ちゃんと判断した」


 その言葉は、ファンタが一番ほしかったものだった。


 胸が、楽になる。


 自分は間違えなかった。

 外部の怒りに剣を曲げられなかった。

 カインを傷つけなかった。

 ジアに無力感を抱かせなかった。

 リョウを責める理由もない。


 完全な英雄。


 その自分は、明るく笑っていた。

 剣を掲げ、迷わず人々の前に立ち、正しいことを正しく行う。


 だが、その横で、カインは言わなかった。


 勝つな、選べ。


 その声が、この世界にはない。


 カインは完璧な補佐として、ファンタの隣にいる。

 彼の痛みも、怒りも、自分の道を作る意志も、きれいに消えている。


 ファンタは剣を下ろした。


「違う」


 英雄としての自分が、こちらを見る。


 眩しいほど正しい顔で。


「僕は、これが欲しい」


 ファンタは認めた。


「カインを傷つけなかった自分になりたい。ジアを泣かせなかった自分になりたい。誰にも責められない英雄でいたい」


 剣を握る手が震える。


「でも、守れなかった痛みも、止まれと言われた声も、僕の人生だ」


 完璧な英雄の姿が、白い光に揺れる。


「それを消して正しくなるなら、僕はその英雄にはならない」


 ファンタは、剣を自分の足元へ突き立てた。


「僕は、間違えた僕のまま、次を選ぶ」


     *


 はつかは、白い部屋にいた。


 そこには不安がなかった。


 身体は透けない。

 写真から消える恐怖もない。

 住民記録の更新履歴を確認する必要もない。

 誰かに覚えられなければ存在できない、という震えもない。


 彼女はジアと一つになっていた。


 鏡に映る姿は、はつかでもあり、ジアでもある。

 濃紺の髪と淡い灰茶色の髪が混ざり、暗い赤紫の瞳とジアの柔らかな光が一つの目に収まっている。

 緑青色の本と術式帳は一冊に綴じられ、余白校訂と仮記述は完全な正典記述術へ統合されていた。


 安定している。


 苦しくない。


 誰かの材料だと悩まなくていい。

 ジアに奪われることもない。

 余白へ落ちることもない。

 廻宵はつかという不安定な名を必死に握っていなくてもいい。


「これが、救いです」


 アレフの声が聞こえる。


 白い部屋の中で、はつかは目を閉じた。


 確かに、楽だった。


 怖くない。

 自分が消えるかもしれない恐怖がない。


 けれど、図書室の夕方もない。

 御影透子にお茶を出された時の複雑な温かさもない。

 リョウに「今から覚える」と言われて、足りないと思いながら少しだけ支えになった感覚もない。

 ジアに怒った声もない。

 自分の名前を、自分で署名した震えもない。


 苦痛だけでなく、自分で選んだ不安定さも消えている。


 はつかは目を開けた。


「私は、私の不安定さごと、生きます」


 白い部屋に、緑青色の線が入る。


「怖いです。安定したいです。でも、私でなくなる安定は、私の救いではありません」


 統合された鏡の姿が、静かにひび割れる。


 その向こうで、ジアも同じ白い部屋に立っていた。


     *


 ジアは、完全な治癒術師になっていた。


 家名を持っている。

 幼い記憶も戻っている。

 術式索引に欠けはない。


 彼女はカインの脚に手を当てる。

 白い光が流れ、傷は跡形もなく治る。

 カインは痛みなく立ち上がり、杖も補助具も不要になる。


「ありがとう、ジア」


 カインが言う。


 その声に、ジアは泣きそうになった。


 これが欲しかった。


 欠けていなければ。

 完全なら。

 もっと正しく治せていたなら。


 そんな後悔が、ここでは消えている。


 彼女は、誰も取りこぼさない。

 誰かの記憶を奪うこともない。

 自分の名前に穴がない。


 でも。


 ジアは、自分の手を見る。


 そこには、失敗して火傷した記憶もない。

 治せませんでした、と言って泣きそうになった自分もいない。

 カインに「謝るなら、何を間違えたか言ってからにしろ」と言われた痛みもない。

 はつかへ「元は私のものです」と言って傷つけ、そこから学んだ自分もいない。


 完全な自分は、美しい。


 けれど、これまで立ち上がってきた不完全なジアではない。


「欠けたままでも」


 ジアは言った。


「私は術式を作れます」


 完全な治癒術師の世界が揺れる。


「治せないことを、なかったことにしたくありません。カインさんの痛みも、私の欠けも、はつかさんの名前も。完全になれなくても、そこから作れる術式があるって、私は知りました」


 白い世界に、淡い金色の仮記述が走る。


「私は、ジアです。家名がなくても、欠けていても、今はこの名前で立ちます」


     *


 カイは、事故前の交差点にいた。


 信号は正常だった。

 トラックは来ない。

 中学生も飛び出さない。

 彼はスマートフォンを握り、リョウへ送るメッセージを書き直している。


 ――悪かった。勝手に出してごめん。明日、ちゃんと話したい。


 送信。


 それで終わる。


 事故は起きない。

 脚は折れない。

 肋骨も痛まない。

 病室で怖いと言わなくていい。

 姉を泣きそうな顔にさせなくていい。

 リハビリの不安もない。


 翌日、彼はリョウと話す。

 喧嘩はするが、すぐ仲直りする。

 リョウは怒りながらも許し、カイは笑って「次から気をつける」と言う。


 軽い世界だった。


 戻れるなら戻りたい。


 カイは、本気で思った。


 痛いのは嫌だ。

 怖いのも嫌だ。

 病室の天井を見ながら、自分の脚がどうなるか考える時間なんて、ない方がいい。


 でも、この世界の自分は知らない。


 自分がどれだけ人の領域を踏み抜いたかを。

 リョウに許されるための装置じゃないと怒ったことを。

 芽衣に怒る権利を残してもらったことを。

 カインと声を重ねて、勝手に限界を決めるなと言ったことを。


「戻れるなら戻りたい」


 カイは言った。


「そこは嘘つかない」


 白い交差点が止まる。


「でも、戻ることを俺以外が決めるな」


 彼はスマートフォンを握りしめた。


「事故前の俺に戻すのも、事故後の俺を材料にするのも、どっちも勝手だ。俺が怖いって言ったことも、怒ったことも、まだ終わってない。終わらせんな」


     *


 カインは、傷のない脚でファンタの隣を歩いていた。


 王都の石畳。

 塔への道。

 どんな道も読める。

 ファンタが迷えば正しい方向を示し、戦闘では完璧な位置取りで支える。

 傷がないから、遅れない。

 痛みで判断が鈍ることもない。


 補佐として完成された自分。


 それは効率的だった。

 美しかった。


 ファンタは英雄として進み、カインはその帰り道を測る。

 互いに無駄がない。

 衝突も少ない。

 ファンタが危険へ向かえば、カインは正しく止める。

 ファンタは従う。

 誰も傷つかない。


 だが、その自分は測っているだけだった。


 自分がどこへ行きたいかを、測っていない。


 カインは測路杖を地面へ突いた。


「俺は道を作る」


 完全な補佐の世界に、ひびが入る。


「だが、俺の行き先も俺が決める」


 痛みのある左脚の感覚が戻る。


 鋭い痛み。

 重い不安。

 走れるか分からない現実。


 それでも、そこに自分がいる。


「ファンタの横にいるか、別の道を行くか、立ち止まるか。それを補佐役の完成度で決めるな」


     *


 ミレシアは、混乱のない王都を見た。


 リヴェリスの水は青く澄み、人々は王太女を愛していた。

 彼女は「さらわれたが救われた姫」として扱われることに、もう違和感を持っていない。

 王家と神筆会の密約は、適切に整えられている。

 母セレナの記録も、美しい追悼文として残されている。


 誰も責任を問わない。

 誰も怒らない。

 王都は安定している。


 ミレシアは、王宮の公示の間に立っている。

 民は彼女を信じ、父王は安心して微笑み、神筆会は水路網を支え続ける。

 真実は適切な形に加工され、民の生活を脅かさない。


 統治としては、理想に見えた。


 だが、その水路には流れがなかった。


 透明で、静かで、美しい。

 けれど、底に沈んだ声は浮かび上がらない。


「真実を扱う責任から逃げる安定は」


 ミレシアは王杖を握った。


「統治ではありません」


 美しい王都の水面が揺れる。


「私は混乱を望みません。けれど、混乱を避けるために、誰かの声を永遠に閉じることも望みません。民を信じることを、怖いからといってやめたくありません」


 王杖アステリアが青を取り戻す。


「私は、愛される姫としてではなく、問われる王太女として立ちます」


     *


 セヴランは、ヴァルダ外縁区にいた。


 橋は落ちていなかった。


 彼は間に合った。

 外縁区の住民をすべて避難させ、魔獣を食い止め、中央区も守った。

 誰も切り捨てていない。

 誰も橋の向こうに残していない。


 人々が彼を称える。


 真実としての英雄。


 改稿ではない。

 偽りの名誉ではない。

 本当に全員を救ったセヴラン=グリフ。


 若いセヴランは、血と泥にまみれながら、それでも誇り高く立っている。

 周囲の人々は泣きながら感謝し、神筆会は彼を正文の騎士として迎える。

 彼は、背負う罪を持たない。


 その光景を、今のセヴランは見ていた。


 槍を握る手が震える。


 欲しかった。


 これが欲しかった。


 あの夜、橋を落とさずに済んだ自分。

 叫び声を聞かずに済んだ自分。

 英雄の役割を、偽りではなく名誉として受け取れる自分。


「その名誉は」


 セヴランは、掠れた声で言った。


「私のものではない」


 理想のヴァルダが揺れる。


「私は橋を落とした。救った者もいる。切り捨てた者もいる。どちらも、私の判断だ。これを改稿すれば、私は楽になる。だが、外縁区で失われた者たちの声を、また閉じることになる」


 彼は筆槍グラン・スクリプトを握り直した。


「私は、偽りの英雄として立つことに逃げた。今度は、本物の英雄だったことに逃げるわけにはいかない」


 白いヴァルダが崩れる。


 セヴランの頬に、光ではない涙が一筋だけ落ちた。


     *


 レムは、黒稿体たちの王になっていた。


 すべての声が、一つになっている。


 戻りたい者も、眠りたい者も、名だけを望む者も、怒りだけで形を保つ者も。

 全員がレムの声にまとまり、彼の背後で巨大な黒い潮流となっている。

 その力で、現在の世界を塗り替える。


 採用された者たちは場所を譲る。

 余白は戻る。

 削除された可能性は、全て現実と異典層へ流入する。

 レムの言葉は、誰にも否定されない。


 彼は、認められていた。


 余白の王。

 未完王。

 欄外の群れの総意。


 その名は、ひどく甘かった。


 孤独ではない。

 迷わなくていい。

 全員の痛みを背負い、全員のために怒ることができる。


 だが、その背後から、小さな声が聞こえた。


 ――眠りたい。


 別の声。


 ――名前だけでいい。


 また別の声。


 ――あなたの怒りは、私の怒りではない。


 レムは目を閉じた。


 全ての声が一つにまとまる世界。


 それは、神筆会の唯一正典と何が違うのか。


「彼らは」


 レムは言った。


「私の声ではない」


 黒い王冠が砕ける。


「私は代表者だった。代表であることに、酔ってもいた。痛みを背負っているつもりで、彼らの違いを私の怒りへ畳んでいた」


 彼は、背後の黒稿体たちへ向き直る。


「私は、君たちの王ではない」


 その言葉で、黒い潮流はばらばらの文字片へ戻った。


 不安定で、危うく、まとまりがなく、扱いにくい。


 だが、それぞれ違う声だった。


     *


 白い世界が割れた。


 リョウたちは、余白門の前へ戻っていた。


 全員が息を切らしている。

 傷を負ったわけではない。だが、それぞれが自分の最も欲しい可能性を見て、それを拒んで戻ってきた。


 誰もすぐには言葉を出せなかった。


 アレフは、彼らを見ていた。


 初めて、その表情に揺らぎがあった。


 怒りではない。

 敗北感でもない。

 本当に分からないものを前にした、静かな困惑。


「なぜ」


 彼は言った。


「苦痛の少ない稿を、なぜ拒むのです」


 リョウは、まだ涙の残る目でアレフを見た。


「欲しくないわけじゃない」


 ファンタも言う。


「僕も欲しかった」


 はつかが続ける。


「苦しくない方へ行きたい気持ちは、あります」


 ジアも頷いた。


「完全になりたかったです」


 カイの声が、病室からかすかに入る。


『戻りたかったよ』


 カインも低く言う。


「痛みは、ない方がいい」


 ミレシアが王杖を握る。


「混乱しない国は、魅力的でした」


 セヴランが目を伏せる。


「全員を救った自分を、私は望んだ」


 レムが黒い文字片を握る。


「全ての声に認められることは、甘かった」


 アレフは、彼らを見つめる。


「では、なぜ」


 リョウは、黒いノートを抱えた。


「それを俺たち以外が決めるからだ」


 その言葉に、アレフの目がわずかに揺れた。


 はつかが続ける。


「苦痛が少ないことと、私が選んだことは同じではありません」


 カイが言う。


『戻るなら、俺が戻るって言いたい』


 カインが続ける。


「進むなら、俺が進むと決める」


 ミレシアが言う。


「民の安定も、真実も、誰かが代わりに完成させるものではありません」


 セヴランが低く言う。


「償いも、敗北も、私のものです」


 レムが締める。


「余白の声も、一つの王に預けるものではない」


 アレフは黙った。


 白い頁の光が、ほんの一瞬だけ弱まる。


 彼の目に、遠い記憶が映っているようだった。


 澪。

 ミラ。

 救えなかった二人の少女。

 揺れ続け、苦しみ続け、最後に問いを残した二人。


 私たちは、どうなればよかったの?


 アレフは、その問いを何度も聞き続けたのだろう。

 だから、二度と誰にも問わせない世界を作ろうとした。


 だが、リョウたちは問うことを選んだ。

 苦痛が残っても、選ぶことを手放さないと言った。


 アレフは、静かに目を閉じた。


「それでも」


 声は、さっきよりわずかに低かった。


「選択の苦痛は残ります」


 白い頁が再び光を取り戻す。


「あなたたちは、また誰かを傷つける。選ばなかった可能性は余白へ落ちる。戻す順番を決める時、誰かを後回しにする。真実を開く時、誰かの暮らしを揺らす。謝っても許されないことがある。治せない傷が残る。名前をつけても、救えない者がいる」


 誰も否定しなかった。


 できなかった。


 アレフの言葉は、脅しではない。

 事実だった。


「私は、その苦痛を終わらせます」


 アレフは両手を広げた。


「あなた方が拒んでも、私は校了します。迷い続ける世界を、これ以上放置しない」


 余白門の中心に、白い巨大な頁が開く。


 そこには、まだ何も書かれていない。


 だが、次の瞬間には、すべての名が役割へ置き換わる。

 すべての道が一本へ束ねられる。

 すべての声が正しい文へ整えられる。


 アレフの声が、最終の宣告として響いた。


「唯一正典計画、最終校了」


 白い光が、世界を飲み込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ